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今日の1枚:「わが日々の終わり」(ルビー・ヒューズ)

End of My Days「わが日々の終わり」ルビー・ヒューズ
ブライアン・エリアス(1948−)「緑の谷に会いに来て」(2009)
キャロライン・ショウ(1982−)弦楽四重奏のための「ヴァレンシア」(2012)
レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ「野原に沿って」(1927)
ジョン・タヴナー(1944−2013)「アフマトヴァの歌」(1993)
ジョン・ダウランド(デヴィッド・ブルース編)「ふたつのダウランドのラメント」(2011)
民謡(ドナルド・グラント編)弦楽四重奏のための「ダ・デイ・ドーン」
モーリス・ラヴェル(サイモン・パーキン編)「カディッシュ」(1914)
エロリン・ウォーレン(1958−)「わが日々の終わり」(1994)
クロード・ドビュッシー(ジェイク・ヘギー編)「ビリティスの三つの歌」(1897−98)
グスタフ・マーラー(マンチェスター・コレクティヴ編)「原光」(1888−94)
デボラ・プリッチャード(1977−)「平和」
BIS, BIS-2628
ルビー・ヒューズ(ソプラノ)
マンチェスター・コレクティヴ
録音:2022年1月11−13日

 歌曲のリサイタル・アルバムというと、以前はひとりの作曲家に焦点をあてたモノグラフか、あるいは相互に関連のある作曲家たちを集めたオムニバス盤が主流でしたが、近年はそうした正統な(あるいは学術的な)選曲を離れて、歌手がそれぞれにオリジナリティを発揮して個性的なプログラムを編むことが多くなったように思います。例えば仏アルファ・レーベルでのサンドリーヌ・ピオーやヴェロニク・ジャンス、ベンヤミン・アプルら、あるいはBISでのキャロリン・サンプソンのリサイタル・アルバムがそうです。さらにはドイツ語、フランス語、英語など、テクストの言語がチャンポンとなっても気にせずに1枚にまとめる、という力業を発揮する歌手も少なくない。こうしたアルバムは、実際のリサイタルでのプログラム構成などを反映したものかと思いますが、その選曲のセンスが問われると同時に、多くのアルバムに付される歌手自身の文章もあれこれとその中身を問われることになって、作り手側の負担はなかなかに大きいのではないかと推察されます。
 ルビー・ヒューズは現在BISレーベルを中心に録音活動を行っているソプラノ歌手で、ダウランドやパーセルから現代に至るまで、幅広いスタイルの音楽を手がけています。なかでも近年リリースした、マーラーの《リュッケルト歌曲集》にベルクの《アルテンベルク歌曲集》、そして初録音となるライアン・サミュエルの歌曲集《クリュテムネストラ》を組み合わせた1枚は、欧米の音楽誌で高い評価を得ていました。その後もいくつかリサイタル盤をリリースしていて、当盤が最新譜となります。
 当盤のプログラムは、かなり折衷的なものです。これはコロナ禍中の英国で、マンチェスターを本拠地として活動する弦楽四重奏団、マンチェスター・コレクティヴとともに行ったツアーで採り上げた曲目から選ばれたものとのことで、プログラム内部にコンセプト性がある訳ではない。「どんな音楽が、現在世間を支配する不安に応えられるだろうか」という観点が選曲を導いたとのことです。タイトルとなったウォーレンの《わが日々の終わり》は人生の終わりを迎える内容だけれども、悲しみや後悔ではなしに、力強さに彩られて人生を祝福すらする歌です。この歌を含めて、沈黙や別離を歌う歌がプログラムには含まれますが、同時に愛と希望、私たちは来たところに帰るのであり、光が私たちを永遠へと導くのだという確信が歌われているのだと、ヒューズ自身はブックレットに掲載された文章で述べています。確かに、愛や死を、人生を歌って色とりどりな選曲ですけれど、そこではある種の静かな力強さが全体を支えていると言えるかもしれません。
 ヒューズの歌声はどちらかというと硬質で、鋭く聴き手に迫ってくる印象がありますが、決してアグレッシヴではないし、柔軟さに欠けている訳でもありません。ドビュッシーの《ビリティスの三つの歌》など、その硬質の輝きを巧みに出し入れしつつ、曲の内包する陶酔的な感覚美をよく引き出して見事です。またタヴナーのロシア語歌曲集《アフマトヴァの歌》(3曲を抜粋)では、エキゾチックな旋法に対して曲ごとに異なる声色をあてて、鮮烈な衝撃を与えてくれます。でも、アルバムとしての核心はラヴェルの《カディッシュ》や、ある意味でよく似た曲想の《わが日々の終わり》、マーラーの《原光》、さらには掉尾に置かれたプリッチャードの《平和》が聞かせる、強靱かつ深い祈りにあるのかもしれません。

(本文1430字)


Hughes, End of My Days

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