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The end of summer

 ◇
 冷蔵庫の青白い光が朝の白さに融けていくのを確認する。9月1日の明るさは、8月32日のようだった。
 ヴィンセント・ギャロのアルバム「when」をiPhoneから探し出して、ヘッドフォンで耳を塞ぐ。私はBluetoothのイヤホンを持っていない。便利だと思うけれど、買うほど欲しくならない。ヘッドフォンのクッションが密着して耳が塞がれる感覚が、嫌いではないし。
 朝からウォッカを飲みたいと思った。しかし気を取り直して仕事に行く準備をする。外では戦争が始まっていて、既にこの辺りでも死人が出ていると言うことだった。小型のサバイバルナイフと携帯型充電器、それから生理ナプキンとTシャツがリュックサックに入れっぱなしになっている。空のペットボトルに水道水を入れて、リュックのポケットに入れた。会社のIDカードと財布、定期券があるのを確認して、最後に林檎味のグミを放り込む。どうすれば生き残れるのかはわからないし、あまり真剣に考えたいとも思わない。サバイバルナイフは高校生の頃に男子生徒の間で流行っていたが、私はそのナイフで当時はリストカットをしていた。まだそれを持っていたので使っている。
 毎朝、着て行くべき洋服には悩む。夏はいつ終わりになるのだろう。半袖のカシュクールのワンピースを手にとり、シワになっていたのでよした。薄手のシャツを着て、それもやはり脱いで、シフォンの小花柄のワンピースを被る。紐靴を結んでリュックサックを背負い、玄関の鍵を閉めた。
 
 電車は人がまばらだ。皆、顔が少し消えている。そういう感染症が流行っているのだ。眼鏡をかけた少年は右目が消えたようだった。まだ暑いのにきちんとブラウスを着て帽子を被っている。その隣の老女は顎の一帯が消えていた。しかし目だけで微笑んでいるのがわかり、美しい人だと思った。
 準急の電車は、街に近いいくつかの駅を通り過ぎていく。車窓から線状に流れていく景色を凝視していると、通り過ぎる駅の看板がカラフルな糸を引く。かろうじて読み取れる看板の文字を拾うのが、電車に乗る間の暇つぶしだ。肛門病院、婦人科医院、透析、心療内科。看板は大抵病院だ。色んな専門科があるが、まだ顔が消えていく感染症の専門医院は、広告を出していないようだった。

 ◇
「川瀬さん、今日は大丈夫でしたか。」
 会社に着くと江藤さんが話しかける。
「おはようございます。大丈夫です。江藤さんは大丈夫でしたか。」
「私は大丈夫です。」
 江藤さんはチームのシステム管理を行っていて、派遣社員だがもう1年くらいここで働いている。私はなるべく始業より早めに着くように家を出ているけれど、オフィスにはいつも江藤さんが先にいて一番乗りは彼女だ。高校などは随分と進学校だったようで、頭のいい人なのだと聞いた。
 職場の空調は効きすぎている。冬はむせ返るほどの熱波が発せられる機械からは、今は凍えあがるほどの冷風が吐き出されている。膝掛けにくるまりながら黙々と仕事をした。私の仕事は資料を読むことだ。ページ毎に色をつけて記憶し、それを食べる。咀嚼している時に危ないので、先にホッチキスを外さなければいけないのが結構大変ではある。表紙や目次は読まなくてもいいので、シュレッダーにかけている。
 昼までに2冊の大きな冊子状の資料を片付けた。窓からカーテンを透ける陽光のオレンジが眩しく、早く帰って冷蔵庫の光が見たいと思う。少し他社の人と電話の連絡をして、江藤さんとお昼ご飯を食べに行った。江藤さんは油そばを食べたいと言って、私は何でもよかった。

 昼の休憩から戻って、終業までに4本の資料を記憶した。
「チームで飲みに行こうという話になりました。川瀬さんも行きましょう。」
 江藤さんがにこにこしながら誘う。彼女は夕方から頬のあたりが消えている。
「行きます。」
 飲み会は小規模ながら楽しい時間だった。チームリーダーはライフルを背負っていた。ビールを飲むときはビールだけを飲むんだ、というようなことを言う。私はビールも焼酎もちゃらんぽらんに飲むのが好きなので、そうした。ウォッカは外では飲まない。
 帰りの準急列車では暗くて看板の文字はわからなかった。満員ではないけれど多くの人が乗る真夜中の電車では、人々の顔はよく見えた。

 ◇
 シーツも枕も寝巻きも白い。プラスチックのスプーンは乳白色で、ベッドの柵と同じ色に見える。リュックサックからグミを出して食べた。
 

 ◇
 冷蔵庫の青白い光が夜の静けさに鋭く放射する。ウォッカを一口だけ飲んで、歯を磨いた。サバイバルナイフをリュックサックから出して、枕元に積み上げた本のてっぺんに置いた。iPhoneで動画を見る。猫が笑う動画が怖くて、その彩度の高さに当てられてしまったので、もう一度冷蔵庫の前に立った。9月2日になった。冷蔵庫にある少しの野菜と牛乳、卵、小麦粉、コチュジャン、味噌。生きていけると思った。戦争は数年は終わりそうにないそうだ。できれば誰も殺したくないな、と思う。
 青白い放射光の向こうには小窓があって大きな月が見える。オレンジの光は苦手だ。あいにく月はまんまるく、とても強く光っていた。なんて凶暴なのだろう。
 泣きながら眠る頃に、薄らぐ意識のなかで、私もライフルが欲しいと思った。  

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