流星群 12-13

12

 海が2人の目の前に広がっている。

伯父さんと私は、施設のサンダルのまま、浜辺を歩いていた。二人とも足は砂だらけになり、私は泣き腫らした目のまま髪の毛もぐちゃぐちゃで、とても外には出れる状態ではなかった。誰にも触れて欲しくない姿、だった。

 伯父さんはとてもすがすがしい顔をしていた。

 私は歩いている足を止めた。足の下に蟹がいた。その蟹は白い色ではなく、苔のような深い緑色をしていた。もっとよく見ようと目を細めた。とても小さい蟹だった。

伯父さんは眩しそうに目を細め、目元をごしごしと擦る私の手を優しく取り、また歩き始めた。その自然な動作に私は驚いた。

それから少し前を歩く伯父さんの背中を見つめた。

優しい手はとても力強く私の手を包み込んでいた。

涙が零れそうになった。

 伯父さんの手は暖かく角ばった手は確かに男性だった。小さい頃大きい人で怖くて絶対に触れなかったこの手。

伯父さんの手は、とても暖かかった。

「いい天気で気持ちがいいね。」

 伯父さんは私を見て笑った。

「お昼を、もらってくればよかった。」

 左手を上に上げ、伯父さんは背伸びをした。

右手は私の手をしっかりと握っている。

「このまま、どこか遠くに行ってしまいたいね。」

私は遠くを見つめながら小さな声で呟いた。伯父さんは海を見ていた。

海はただ、静かにそこにあった。

伯父さんは、静かな声で呟く。

「僕はもうどこにも行きたくない。」

私はおじさんの手を強く握った。その手は暖かくとても大きかった。

「帰ろう。」

伯父さんは私の顔を見る。

「大丈夫。大丈夫だよ。」

 私は、伯父さんの目を見て答えた。

「何も、怖いことはないのよ。」 


13


 その日はとても静かな日だった。

 海には波もなく、ひたすらに静止していた。

白い蟹は静かにだんまりを決め込んだかのように押し黙っていた。

 空気が違っていた。

とても濃厚な空気が俺を包み込み、肺に空気が流れ込む。ため息をつくことがやっとだった。心の奥の方がざわざわとした胸騒ぎに襲われている。

足の指先から手の指先まで、全身が拒否感に襲われている。それはとても気持ちが悪かった。まるで、身体の中に何かが入り込んでいるようだった。

咳き込むと胸の辺りに違和感が生じる。とても長いため息をついた。

 それから静かに瞬きをした。それはほんのごくわずかな時間だった。いつも通りにいつもと変わらず。そしてそれは一瞬の出来事だった。

丸い卵が落ちてその形が跡形もなく変わるように、世界が跡形もなく消えている。それはほんのごく僅かな時間だった。


目を開けると世界は姿形を変えた。


 目の前にはとても小さな島があった。火山が一つ、山頂から煙を立ち上らせている。海は穏やかに流れ、水流がその島に向かって吸い込まれていた。

水流に身を任せると、その島に行ける。足元には島から流れ着いたたくさんの、ガラス瓶が漂っていた。

一番近くにあるガラス瓶を手に取り、コルク栓を抜く。中に小さな紙が入っていた。

そこには見たこともない文字が並んでいた。それは誰かに送られた手紙だった。もう一つガラス瓶から紙を取り出すと、そこにも同じ文章が並んでいる。

辺りを見回すとおびただしい数のガラス瓶が浜辺に打ち上げられていた。それは全て手紙だった。ガラス瓶は日の光りを浴び、きらきらと光り続ける。その眩しさに俺は目を細めた。

俺はその島を、確かに見たことがある。

それはとても随分前のことでおそらく俺がまだ、俺として産まれていないときのことだ。

その島は誰かを待っていた。そしてこれからも、誰かを待ち続ける。

少なくともそれは俺でないことだけは分かっていた。手にした手紙をガラス瓶の中に戻し、海に返した。それは、水流に飲まれてすぐに消えてしまった。


 瞬きをすると、世界はまた姿形を変えた。


 そこは真っ白な世界だった。雪が砂浜を覆い海は凍りついていた。波の音は聞こえず、音と言う音が雪の中に埋もれている。

静寂だった。

息は白い糸のように口から零れ、手は寒さを感じ、赤くなっている。

足には硬い霜がこびり付き何度はらっても落ちない。耳と頭が寒さで痺れ、全身が氷の像のように動かなくなっている。神経が研ぎ澄まされ、どんなに小さな風でも身体は敏感に反応する。

 海は凍り、道になる。見るからに分かる分厚い氷がどこまでも道となり、歩いていくことが出来る。俺は痺れた頭で考えた。

ここには道がある。ここには先がある。だがここではない。ここは俺じゃない。下を見ても、そこには蟹の姿が無かった。

 もう一度瞬きをした。

 

 目をゆっくりと開けた。そこは夜だった。


 海はいつものように、穏やかに波打っていた。空を見上げるとたくさんの星が輝いている。それはあのガラス瓶と手紙のように、きらきらと光り輝いていた。

 全身を覆う寒さは消え手も足も頭も自由に動かすことが出来た。右手を二回握ってみる。そこにはいつもの自分がいた。ただ違うのが体中が温かい。

全身に血が通っている。肺に息を落とすと、体中に血がめぐる。頭の中が痺れる。心臓がどくどくと脈を打っている。

下を見ると足元に白い蟹がいた。

「ここにいたのか。」

 いつものように蟹に話しかけると、蟹は小さく足を動かす。

そして、そのまま真っ暗な海に歩いていった。

それはとても神聖な儀式のようだった。静かに時が動く。蟹は何の迷いもなく、海の方へ歩き続け海に入り、消えてしまった。

完全に消えてしまった。

 そこには俺だけが残った。完全に一人だった。頭の中に一人と言う言葉と、ペンギンの後姿が浮かんだ。それはとても静かで真っ暗だった。上を見上げるとたくさんの星が俺を照らしている。

息を呑んだ。

 それは世界で一番美しい光景だった。目の奥に星が映り、それは俺の中で一体となった。


俺は星に包まれ、星の中に埋もれ、星の中で産まれた。

 

 俺は初めて泣いていた。目からたくさんの涙が溢れ出してくる。溢れ続ける。止めることが出来ず、それは俺の意思であり、俺の意思ではない「何か」だった。

この世界で生きている意味と初めて産まれた喜びと何かを失う悲しみと誰かが傍にいてくれることが、どんな事だったのかが一瞬で理解できた。頭の中にたくさんの情報と感情が押し寄せてくる。俺はずっと泣いていた。

 海は相変わらず静かだった。そして俺の中には彼女がいた。目を閉じると、彼女の手のぬくもりがよみがえってくる。手を握ると、彼女の感覚が思い浮かぶ。

「帰ろう。」

 確かに彼女がそう言った気がした。

俺は脚を前に運んだ。運び続けた。迷いは何一つ無かった。

暗い海の中に自分の身を沈める。海はとても温かく心地よかった。全身が温かく柔らかいものに包まれ、身体が沈むと上のほうに水面が見えた。

星のかけらが水面に浮かび、海底を照らしてくれる。

僕の前には照らされたたくさんの道が見えた。それは雲の隙間から光りが差すように一筋の希望の光りだ。そして俺はその中に沈んでいく。

軽く足をばたつかせふわりと浮かび前に進みながら、段々と深い所へ落ちていった。

 

僕は一人で生まれ、そして二人になり、そして彼女と一つになる。


隣を見ると白い蟹がいた。俺はそっとポケットの中に蟹を入れた。ポケットはとても温かくなり、俺はポケットの上から蟹をそっと撫でた。


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