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老僧


法事の帰り、明石にいる大叔父の元へ。
御歳九十。長年妻は痴呆で介護の後見送り、一周忌を終えた直後。妻の為に建てたバリヤフリーの家で一人住まい。

小さくなられた身体、けれど声は肚の底から響き渡る重低音。手を合わせに伺いたいと言った私達が訪れるのを、数週間前から心待ちにしてくれていた。

「ようこそ おいで下さいました。今はこうして、この片田舎で余生を送っている次第でございます」

「今でも ミヨは夢見に枕に立ってくれよる」

「夫婦片割れが亡くなったら あの世で仏の坐に座り、もう片方の空いた坐がくるのを待っているそうな。ただ、それに他の者が座りよることもあるかもしれんがな…」

朝日ビールの缶を開け、恐らく今でも1人飲みながら、晩酌相手を待っていたのだろう。

母の生家の寺の住職だったこの人が経をあげると瞬時に時空間が変わる。
何の経だったのか… 風が立ち洋装が瞬時に僧衣に変化しはためき、異次元空間の中。幽玄の顕現。
体験したことのない、甘美と侘び、悲哀と悲愛よりも数層深い意識界。
六〇余年続けてきた肚の底から会場に響き渡る読経の重低音。
この唄であった… 電子記録にはとても遺せない、遺そうとした瞬間から別物に成り代わる、一切合切この刹那だけの生成宝物。
この師の中にしか存在し得ない法界と連結するへその緒の中空筒の移動。
涙こぼれ震える。

部屋に飾られた立派な金屏風を見て、他界した妻が生前旅先で買ってきたものだと聞く。
二人で旅行によく行ったのかと問うと、

「寺を空けることはできひんかったから、こっそり、二人で日光へ行ったんが思い出やな」
と。

兄夫婦の他界により突然運命が切り替わった夫妻。兄が住職をしていた寺を引き継ぎ、寺と墓所の守り人となった人。黒の僧衣を来て遠出することもままならない身、自身の選択であっただろうとは言え、縛りを得る身となった、そしてその嫁も。

その家が元々の生家だった私の母の立場からすると、自身の両親の他界と、そこに移り住んだ叔父の嫁との同居は一種の大きな圧力だった。一方で叔父夫婦、特に嫁の立場からすると、本意ではなかった自身の運命の成り行きに諦観と嘆き、抑圧の集積があったのかもしれない。ならば我慢している自分の代償にせめてと、忍耐が欲の皮や精神の歪みに変転するのも無理からぬことだったのかもしれない。
誰もが思う通りには生きられない。小さな空間の中で互いに摩擦しあいながら身をすり合わせる暮らし、そうした互いの複雑な凸凹面の合わさり合う、血縁関係であった。

今は自分の一人息子が、寺を継いでいる。
もうすぐ五十になる息子に嫁がおらず、嫁を探し得なかったことを悔いる様。

「新聞を見れば、独身男性の記事が目に入る」
「こんな田舎の寺に誰が嫁に来るか と」

四十を過ぎて出来た一人息子に、望まぬ運命を押し付けたという自責の念か。
自らが愚痴にせず黙り通してきた縛りを、我が子にも押し付けたという。
詫びる姿に一人の親としての寂しさが滲む。

妻が成仏し
そして自身もその隣の坐を見つめ、準備を進めているのだろうか、その只中。
一つの長い長い絵巻物語が終盤になり、現世で縁有った者との摩擦も既にほぼ融けつつある。
恨みであったものも、呪いであったものも。こうして触れ、語ることで、おそらくはまたさらに紐解かれ溶解しているだろうか。

九十年の生きた武士の生き様、その終盤近くで肉声を聞き、その存在に触れ、あわいを共に。

ほんの僅かだった訪れ。もうこれでお会いできるのは最後かもしれないとそこにいる全員が思っている。名残惜しさを糸のように引き延ばしながら、頭を下げ、お元気で、と手を握りしめる。動いたタクシーをずっと見送ってくださっていた。

東へ戻る新幹線の中で回顧する。

私はこの人が好きだった、と思う。
三十年ほど前。あの、寺の本堂の横に隠れるようにあった狭い一畳ほどの空間に、両際背高くぎっしりと何やら難しい本が積み重ねられ、その本の壁の中にひっそりとこの人は背中を向けて何か書き物をしていた。この人のその寡黙な雰囲気が好きだった。何を話すでもない、けれどただその人の存在が放つものが好きで、側にいたかったのだ。

母も、好きだったという。
子どもの頃、まだこの叔父が結婚前で、生家におり共に小さかった彼女と一緒に暮らしていた。叔父は部屋で色んなクラシックをレコードで聴き、教養の深さを思わせた。彼女は、その部屋に行き、何を話す訳でもなく、ただ隣でごろんと寝そべっているのが好きだった。側にいて、心地よい人だったのだ。気づくとその叔父の部屋にいた。母親が、夕食ができたと声をかけるまで、よくそこにいた。

多くを語らぬ、しかし人の何十倍も震える念を秘めた人だった。

私は、母は、この人が好きだった と。

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