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ポチと私と志渡くん


以前、通っていた小説教室の課題として書いた短編。
2016年11月執筆。


「三織。ポチがまた俺をにらんでる」
 ソファに座ってテレビを見ていた志渡くんが、ちょっと嬉しそうに言った。
 隣で文庫本を読んでいた私は顔を上げ、キャットタワーの中段にいるポチを見た。確かに志渡くんをにらんでいる。
「俺がここに来てもう四日になるのに、まだ慣れないのかな」
 俺、名付け親なのになぁ、と志渡くんが呑気に言う。猫なのにポチなんて名付けたから、恨まれてるんじゃないの、と言いそうになったけど我慢した。反対しなかった私も悪い。

 ポチは志渡くんが拾った捨て猫だ。まだ友人関係だった二年前、志渡くんから電話がかかってきて、「三織ちゃん、子猫を拾っちゃったんだけど、どうしたらいい?」と聞かれた。私は実家で猫を飼っていたので、近所に住む志渡くんの部屋に出向いて、子猫の飼い方を指南してあげた。
 だけど子猫を保護した三日後、志渡くんは急な出張で二週間も海外に行くことになり、私が預かる羽目になった。考えてみれば、志渡くんに子猫を飼うなんて無理な話だった。仕事が多忙で、ほとんど家にいないような商社マンだ。だから私が子猫を引き取ることにした。

 志渡くんはほどなくして、ドバイへ転勤になってしまった。猫を引き取ってもらった恩があったせいか、志渡くんからは頻繁に連絡がきた。約二年間、私たちの交流は続き、友情がいつしか恋に変わっていき、ごく自然な流れで恋人同士になった。今年の頭に志渡くんが帰国してからは会いたい時に会えるようになり、毎日が楽しかった。
 そういう意味では、ポチは恋のキューピッドと言えなくもない。でもポチは極度の人嫌いな猫に育ってしまい、志渡くんがうちに来るとどこかに逃げ込んで姿を消してしまう。徹底した避けっぷりだった。

 志渡くんとのわけありの同居生活が始まってからは、さすがに渋々、姿を見せるようになったけど、お前の存在自体が気に入らないというような目で、志渡くんをにらんでばかりいる。
 ちなみにポチと名付けた理由は、子供の頃に飼っていた柴犬のポチに似ていたからだという。キジトラの子猫と柴犬が似ているわけもないのに、志渡くんが「すごく似てるんだよ」と笑うと、素直にそうなのか、と思えてしまうのは彼の人徳のなせる技か、それとも単ある惚れた弱みというやつか。

「そうだ。明日、おばあちゃんちに行ってくるね」
「おばあちゃんって、三織のおばあちゃん?」
「そう。私のおばあちゃん。奥多摩に住んでる」
「あのワイルドな?」
「そうそう。山で遭遇したでかい熊を一喝して追い払った、あの」
 志渡くんは可笑しそうに目を細めて、「ワイルドなうえに霊感がある、あの」と続けた。
「幽霊と話ができるおばあちゃんなんて、本当にすごいよね」

 その言い方があまりにも無邪気で楽しそうだったので、私はなんだか困ってしまった。仕方なく「だね」と愛想笑いを浮かべて困惑を誤魔化した。
「三織のおばあちゃん、最高だよ。っていうか、三織が話してくれるおばあちゃんの話が最高なのかな」
「そんなふうに言われたら、私が盛って話してるみたいじゃない。全部、事実なのに」
 私の祖母はすごい話や面白い話に事欠かない人で、それらを話すと志渡くんはいつも笑って「最高だな」と言ってくれる。

 今年、七十二歳になるおばあちゃんは、どこにでもいるような痩せた小柄な老人だけど、死んだ人の魂と交信ができる。嘘じゃない。本当にそういう力のある人なのだ。霊と交信するおばあちゃんの姿を、私は何度も目の当たりにしている。
 世の中には、その力に縋りたい気の毒な人たちはたくさんいるらしく、おばあちゃんはボランティアで人助けをしている。おばあちゃんが引き受けるのは、死んだ人と話がしたいという頼み事だけだ。
 除霊や浄霊なんかのお祓い関係は、いっさいやっていない。おばあちゃん曰く、そっちはジャンルが違うのだそうだ。ジャンルって何、と思うけど、おばあちゃんが言うのだから、そういうものなんだろう。

「志渡くん、おばあちゃんに会ってみない? 明日、一緒に行こうよ」
 思い切って言ってみた。志渡くんは少しの間、考えるような顔つきになったけど、「やめとく」と首を振った。
 がっかりしたけど仕方がない。別れた恋人の祖母を紹介されても、志渡くんだって困ってしまうだろう。
 志渡くんが会社を辞めたのは先月のことだ。三十歳の誕生日を直前に控えた十月のある日、「来月、会社を辞める」と言われ、寝耳に水でびっくりした。そして辞める理由を聞いてさらにびっくりした。
 なんとなんと、一年かけて自転車で世界一周してくると言うではないですか。

 そんな壮大な夢を持っていたのかと尋ねたら、突然思い立ったのだという。志渡くんはもともと思いつきで動くところがあるけど、思いつきの自転車旅行のために会社を辞めることが、私にはどうしても理解できなかった。
 世間に名の知れた商社で働き、仕事にも不満はないのに、なんてもったいない。社員八名の業績も冴えない小さな会社で、いつまでここで働けるだろうという不安を漠然と抱えている私からすれば、志渡くんの選択は馬鹿げているとしか思えなかった。

 だから何度も喧嘩になった。頑張れば説得できると信じていたからだ。でも駄目だった。志渡くんは会社を辞め、自転車旅行の準備を開始した。私も意地になっていたのだろう。志渡くんが旅に出るなら別れると言ってしまった。本気ではなかった。思い直してほしい一心だった。けれど志渡くんは「そうか」と寂しそうに頷き、私に別れを告げたのだ。
 今ならわかる。私が間違っていた。心から私が悪かったと思っている。
 でももう遅い。何もかもが遅すぎた。私たちは、もう元の関係には戻れなくなってしまった。

「三織、チャンネル変えて。大河が見たい」
 ソファ横のサイドテーブルの上にあったリモコンを取り、番組をNHKに変える。志渡くんは大河ドラマが大好きだ。志渡くんの好きなものならたくさん知っている。自分の好きなものよりわかるくらいだ。
 志渡くんはあと数日でここからいなくなる。私を置いて言ってしまう。旅立つ前に一週間だけ一緒に暮らしたいと、無理を言って頼み込んだのは私だ。優しい志渡くんはその願いを叶えてくれた。
「私、コーヒー飲むけど、志渡くんも飲む?」
「うん。淹れて」
 キッチンに行ってマグカップを二つ用意する。お湯を沸くのを待っていたら、無性に寂しくなって、ひとりきりで夜の底にしんと落ちていくような感じがした。
 もうすぐ別れがやってくる。大好きな人が遠くへ行ってしまう。私の手の届かない場所へ──。
 ケトルが鳴った。目尻にじわっと浮かんだ涙を慌ててキッチンペーパーで拭った。

   ◇◇◇

 おばあちゃんは奥多摩の山の中にある、古びた一軒家に住んでいる。裏手には山が広がっていて熊もたまに出没する地域なので、都下とはいえなかなか気軽に訪ねていける場所じゃない。
 私は自由に生きるおばあちゃんが好きだけど、両親は嫌っている。というより恥じている。父は頭の固い中学校教師で、本当におばあちゃんの息子かしら、と疑いたくなるほど融通が利かない人だ。母はごく普通の専業主婦だけど、いつも夫や義母やパート先の上司の文句を口にしている。
 息を吐くみたいに愚痴を言う人で、私はそれが嫌で嫌で耐えられなかった。多分、母には愚痴を言っている自覚はないのだろう。

 社会に出てみてわかった。なんでも否定する人って結構いる。本人は自分が正しいと思っているから気づかないみたいだけど、無自覚の悪意ほど質の悪いものはない。
 母の愚痴は私にとって、呪詛と同じだった。愚痴の対象にではなく、私に降りかかってくる呪いだ。
 呪い殺される前に逃げなくては。本気でそう思って就職と同時に家を出た。母は滅多に帰ってこない冷たい娘の文句も、きっと誰かに撒き散らしていることだろう。相手は大学生の弟か、あるいはご近所さんかパート仲間か。

 父も母も嫌いだが、育ててもらったことには感謝している。できることなら親孝行だってしたいと思っているのだ。でもあの人たちのそばにいると、目に見えない何かに押し潰されそうになる。ググッとのしかかってきては、私を打ちのめして絶望的な気分にさせるものは、一体なんなのか。
 他人にどれだけ傷つけられても、あそこまでしんどくはならないのに、「そんなんだから、あんたって子は駄目なのよ」と母に溜め息をつかれることのほうが、何倍も心が疲弊する。

 価値観が違いすぎるのだ。両親が死ぬほど大事だと思っているものは、私にはたいして意味がないし、私が全力で大切にしたと思っていることを、両親は決して認めようとしない。
 価値観の相違。あまりにもありふれた言葉だけど、それこそがすべての悲劇の根源かもしれない。親子でも兄弟でも友達でも恋人でも、相容れない価値観は関係に亀裂を走らせる。その亀裂は時として憎しみを生む。

 それは正しく真実だけど、必ずしも絶対ではない。志渡くんと出会い、友達になり、恋人になり、深く知り合っていく過程で気づかされた。相手の価値観を認める。理解できないことだとしても、決して否定しない。それさえできれば、価値観がどれだけ違っても傷つけ合うことはない。
 なのに私は志渡くんの選択を否定した。決して認めようとしなかった。どうかしていると、何度も責めた。父や母と同じことを彼にしたのだ。それでも彼は私を否定しなかった。ただ悲しんでいた。

 ──三織にわかってもらえないのは辛いけど、三織の気持ちもよくわかる。でも俺も自分の気持ちを変えられないんだ。ごめん。
 別れを決めた夜の、志渡くんの悲しそうな瞳。思い出すと胸がえぐられそうになる。
 馬鹿だった。本当に私は馬鹿で愚かだった。


 バスを降りて二十分かけて歩き、ようやくおばあちゃんの家に辿り着いてみると、玄関の前に頭の白いご婦人が立っていた。おばあちゃんと同じ年齢くらいだろうか。
「あの、おばあちゃんの知り合いの方ですか?」
 後ろから声をかけると、ご婦人は私を振り返り、「近所に住んでる者です」と頭を下げた。少し腰は曲がっているけど、溌剌とした雰囲気のある人だ。
「宮さんのお孫さん?」
 おばあちゃんの名前は鈴川宮子といい、みんなは宮さんと呼んでいる。

「はい。遊びに来たんですけど、もしかして留守ですか?」
「みたいね。……あなた、三織ちゃんでしょ? 宮さんからよく話を聞いてるわ」
 にこにこしながら言われると、なんだか照れ臭い気持ちになる。
「あの、よかったら中でお待ちになりますか? おばあちゃんから合い鍵を預かってるんです」
「あら、いいのよ。ちょっと来てみただけだから」
 ご婦人はそう言ってから、急に黙り込んだ。

「どうかしましたか?」
「……実はね、大事な用があった気がして宮さんに会いに来たんだけど、着いたら忘れちゃったの。どうしても思い出せないのよ。年を取ると忘れっぽくなって嫌ね」
 恥ずかしそうな顔つきだった。私は「大丈夫ですよ」と笑ってみせた。
「うちのおばあちゃんもよく物忘れします。今日だってこの時間に行くって昨日、電話したのにいないんですよ。きっと私が来ることを忘れて、買い物にでも行っちゃったんでしょうね」
 ふたりで顔を見合わせて笑っていたら、背後で足音がした。振り返るとおばあちゃんが立っていた。

「おばあちゃん、お帰り。お客さんが待ってたよ」
 おばあちゃんは私のほうを見向きもせず、ご婦人の顔を見ている。驚いたような困ったような、嬉しいような悲しいような、なんとも言えない表情だ。
「宮さん、どうしたの? 変な顔してるけど」
「だってカズさん。私、今あんたんちに行ってきたんだよ」
「あら、行き違い?」
 あははと笑うご婦人──カズさんに、おばあちゃんが「しょうがない人だねぇ」と苦笑を浮かべた。

「あんたんちでお焼香してきたの。いい死に顔だったよ、カズさん」
 カズさんは笑うのをやめ、「あら!」と叫んだ。
「そうだったっ。私、死んだんだわ。すっかり忘れてた」
 私はええっと驚いて、カズさんの顔をまじまじと見た。カズさんは恥ずかしそうに笑いながら、すーっと消えていなくなった。
 おばあちゃんは玄関のドアを開けてから、「三織」と私を見た。
「あんたカズさんと喋ってたね」
「うん。……いや、だって、普通の人に見えたんだもん。幽霊だったなんて驚き」

 取りあえず家の中に入り、仏壇でお線香を供えてから居間の炬燵に腰を落ち着けた。おばあちゃんは熱いほうじ茶と、私が好きな大福餅を出してくれた。
「カズさん、どうして亡くなったの?」
「心筋梗塞だって。昨日の夜、お風呂からなかなか出てこなくて、娘さんが様子を見に行ったら、浴槽に浸かったまま亡くなってたらしい。元気な人だったから家族も呆然としてたよ。それにしてもカズさん、死んでもおっちょこちょいなんだから。せっかく来てくれたなら、何も慌てて消えることもないのにね」
 それもそうだな、と思ったら可笑しくて笑ってしまった。

「なんでカズさんが見えたのかな?」
「あんた、小さい頃は見える子だったからね」
 初めて知る事実に驚いた。そんなことは今まで一度も教えてくれなかったのに。
「全然覚えてない」
「だろうね。三歳くらいまでのことだったから。勇治や律子さんは疳の虫が強い子だと思ってたみたいだけど、あんたが大泣きする時は大抵は見えてる時だった。この子には私と同じような力があるって言っても、あのふたりは聞きやしないから、どうしたものかって思っていたんだけど、そのうち見えなくなったみたいで安心したもんだよ。また見えるようになっちまったのかねぇ」

 おばあちゃんの表情は心配そうだった。死んだ人が見えたっていいことなんてひとつもないよ、が口癖の人だ。決して愚痴は言わない人だけど、苦労の多い人生を送ってきている。孫には同じ思いをさせたくないと思っているのだろう。
「たまたまかもしれないよ」
「だったらいんだけど。……で、あんたはどうしたの? なんだか小さい子供みたいな顔してるね。おばあちゃんに何か相談したいことでもあるんでしょ。辛いことでもあったかい? んん?」

 おばあちゃんはいつも鋭い。優しい目で核心を突いてくる。
「うん。まあ、いろいろあった。一番辛いのは恋人のことなんだけどね。彼、もうすぐ遠くへ行っちゃうの」
 元彼とは言えず、恋人だと言ってしまった。
「仕事でかい?」
「ううん、仕事じゃないけど。彼曰く、それが人生だからって」
 おばあちゃんは毛虫でも見るような顔つきになり、「面倒臭い彼氏だね」と言った。

「いいかい、三織。人と人には縁ってものがあるんだよ。それがある相手とは嫌でもつき合っていかなきゃいけない。逆にどんなに好きでも、どんなに大事だと思う相手でも、縁がなきゃ一緒にはいられない。その人とはご縁がなかったんだ。どっちが悪いって話じゃない。だから最後は気持ちよく見送ってやんなさい」
 笑って見送ることだけが、今の自分にできること。そう思ったら少し気が楽になった。

「おばあちゃん、この大福、すごく美味しい」
「そうかい? まだたくさんあるから、たんとお食べ」
「うん。……ねえ、おばあちゃん。長生きしてね。うんとうんと長生きして、私の孫の顔も見てちょうだい」
 おばあちゃんは銀歯を見せて笑った。
「楽しみだね。でもその前に、新しい彼氏を見つけないと」
 私も笑ってみせたが、志渡くんじゃない人と結婚する自分の姿は、どうしても想像できなかった。

   ◇◇◇

「ただいま」
 自分の部屋に帰ってくると、志渡くんは部屋の隅で丸くなって寝ているポチの寝姿を、しゃがみ込んでじっと見つめていた。
「何してるの?」
「ポチがさっき寝言を言ったんだ。可愛くて目が離せない」
 私も隣にしゃがんだ。ポチの口はうっすら開いて歯が見えている。不細工な顔だ。でも確かに可愛いい。
「おばあちゃんは元気だった?」
「うん。今日ね、衝撃の事実を知ってしまった。なんと、私は小さい頃、幽霊が見える子だったんだって」

 志渡くんは私の顔をまじまじと見て、「だからか」と頷いた。
「それで俺のことも見えたんだ」
「なんだかがっかりだよ。私は志渡くんだけが特別に見えるほうがよかったのに」
 そういう力があったから、たまたま死んだ元恋人の姿が見えたっていうのは、私としてはあまり嬉しくない。
 志渡くんが死んだあと、私は有給を一週間取って泣いて過ごした。一週間で体重は四キロ減って、瞼は毎日潰れたみたい塞がっていた。そんな私の前に、志渡くんが不意に現れたのだ。もちろん幽霊として。

「あの時の三織、不細工だったなぁ」
 可笑しそうに笑う志渡くんに、「誰のせいよ」と言ってやった。
「うん。俺のせいだね。ごめん」
 会社を辞めて、世界一周の旅に出ると決めいていた志渡くんは、体力をつけるために自転車で走っていて事故に遭った。千葉の山の中で、反対車線に飛び出してきたトラックと衝突して即死だった。
 それは私たちが別れを決めた、三日後の出来事だった。

 恋人が死んだだけでも悲劇なのに、私にはたくさんの負い目があった。彼のしたいことを頭ごなしに反対した。引き留めるために別れをちらつかせた。それでも駄目だったから意地を張って別れた。
 後悔するのはそっちよ。私は間違っていない。なんにも悪くない。ひたすら自分を正当化して、被害者であろうとした。
 志渡くんが死んでからは、自分のずるさを責め続けた。自己嫌悪が強すぎて、純粋な悲しみに浸ることにもできないほどだった。ずっとずっと泣きながら謝っていた。

 そしたら奇跡が起きたのだ。有給の最終日、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになった私の前に、志渡くんが現れたのだ。
 最初の会話は、「あれ? 三織、俺のこと見えてるの?」だった。なんとも間抜けな雰囲気の再会だったけど、おばあちゃんのおかげで心霊現象には馴染みがある私は、号泣しながら志渡くんに謝罪した。そして本当だったら旅に出発するはずだった日まで、一緒に暮らしてほしいと頼み込んだのだ。

 私は志渡くんを幽霊として扱わなかった。食事もコーヒーも用意した。もちろん志渡くんには食べられいけど、生きている時と同じように接したかった。志渡くんもそんな私の気持ちを理解して、死んだ人間ではないように振る舞ってくれた。
 破局する前は喧嘩ばかりしていた。あれは本来のふたりの姿じゃなかった。だから最後の一週間をやり直したかったのかもしれない。
 喧嘩なんてしないで穏やかに語り合い、ゆったりとした時間をふたりで過ごす。そして最後は笑って見送る。

 今ならそれができるかもしれない。私は唐突に決意した。
「志渡くん、もういいよ」
 ポチから私へと視線を移した志渡くんは、すべてがわかっているみたいな顔で「本当にいいの?」と聞き返した。
「うん。私はもう大丈夫だから」
 もう自由にしてあげないと。これ以上、私の我が儘につき合わせてはいけない。志渡くんには行くべき場所がある。そこがどんな場所か想像もできないけれど、私があんまり泣いているから、志渡くんはそこに行きそびれてしまったのだろう。

 本当は前から知っていた気がした。多分、出会った時からわかっていた。志渡くんはいつか行ってしまう人だった。それが遠い異国の地であれ、この世ではない場所であれ、この人は私の前から去ってしまう。なぜかそんな予感がずっとあったのだ。
 暗い世界で、ひととき私を照らしてくれるランタンみたいな人だった。
 短い間だったけど温かい手で私の手を掴んで、隣を歩いてくれた。
 嬉しかった。幸せだった。
 でも、とうとうその手を離す時が来てしまった。

「出会ってから今までありがとう」
「うん。俺もありがとう。三織と一緒に過ごせて楽しかった。ポチのこと、よろしくお願いします」
「任せて。新しく恋人をつくる時は、猫好きかどうか先に確認するから」
 志渡くんは笑った。優しい笑顔が薄れていく。覚悟はできていたはずなのに胸が苦しくなってくる。
「本当にもう会えないの? それとも呼んだら、また会える?」
「もう会わない。でも大丈夫。君が俺のことを思い出す時、俺は君の中にいるから。……って、なんかすごく陳腐な台詞で恥ずかしいけど」

 志渡くんは照れ臭そうな顔のまま、私の目の前からいなくなった。
 何もない白い壁を見つめていると、ポチが目を覚まして体を起こした。お腹が空いたのか、ナーナー鳴いて頭を私の足にこすりつけてくる。
「ポチ。志渡くん、行っちゃったよ」
 私はポチを抱き上げ、温かいクタッとした身体を強く抱き締めた。
 

<終>



 

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