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【全文】評論「空間を捉える——森岡貞香の中庭と部屋」

「短歌研究」2022年12月号「'22年結社誌・同人誌論文——歌人アンケートによる今年度の収穫」にて、「空間を捉える——森岡貞香の中庭と部屋」が1位をいただきました。再録誌面では抄録だったため、こちらに全文掲載しておきます。
初出:「短歌人」2022年2月号 *初出時に書いた記事はこちら
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「空間を捉える——森岡貞香の中庭と部屋」

 森岡貞香の歌を読んでいると、歌の中に現れる部屋や階段、中庭、厨房、また別の部屋といった、建物の間取りや配置、空間そのものが読後の印象に強く残る。とりわけ中庭の歌は魅力的なものが多い。たとえばこのような歌だ。
  母の住む離れの庭に日の差して母屋より同じき中庭の見ゆ
  『百乳文』
 高齢の母は離れに、自身は母屋に寝起きしている住まいのようだ。その間には中庭があり、草木がある。感情などの内心は書かれない。母屋・中庭・離れという空間の配置と人の動きのみによって、とても複雑な感触が立ち現れているように思う。ここに立ち現れているものは何だろうか。もう少し細かく読んでいきたい。庭に日が差している。歌の終わりに進むにつれてこの〈離れの庭〉は、母屋からみて〈中庭〉、つまり離れと母屋の中間にある一つの空間だということがわかる。散文的な論理の上では、見ている主体の位置(視点位置)ははじめから終わりまで母屋を動いていない。母屋から、中庭とその奥にある離れを見ている、という状況だ。一方で、歌の言葉の上ではそう単純ではない。〈母の住む離れの庭に日の差して〉と言ったときに、読み手は庭の日差しの明るさや暖かさを自分の感覚のなかに再現しながら、その感覚を〈離れ〉と〈母〉に属するものとして体験するだろう。そこから下句の〈母屋より同じき中庭の見ゆ〉と続くことで、離れの側の空間の感触を体に残したまま、母屋の側、主体の視点位置の側へと意識の重心が移ってゆく、という感じ方をするのではないだろうか。ここで、〈同じき〉という語が作用しているように思う。一点であるはずの視点位置は〈同じき〉によって、読み手の意識の上であちら側とこちら側とになり、どちらから見ても同じ庭をいまはこちら側から見ているのだ、という把握を含む書き方になっている。
 なにかまどろっこしい説明になってしまっているかもしれない。私がここで言いたいのは、物が二重に見えるだとか、そんな特殊な感覚のことでは決してない。離れから庭を見た経験のある人が母屋から庭を見るという場合に、離れ側から見たときの見え方は、母屋側から庭を見るときの人の意識から完全には消えないのではないか、人の空間把握とはもともとそうなっているのではないか、ということを思った。
 たとえば、自宅から駅までの道を考えてみよう。駅に向かうときの視界と、家に帰るときの視界では、目に映っている物の形は全く異なる。しかし、空間としては「同じ道」で、そのことを特に疑問に思わない。駅までその道を歩くときに、駅の方から自分を見たらどう見えるかを全く想像できない、などということはない。駅にむかって前を見て歩きながら、意識を自分の背後の通り過ぎた道に向けることもできる。振り返らずとも、振り返ったらどうなっているかわかっている、そういうことも含めて、その道の空間の把握なのだ。あらためて言葉にすると不思議なことだが、このような空間把握をだれでもごく普通にしているはずだ。何かを見るときに、別の方向からの見え方も空間把握の感触の中に含まれること。この歌は、普通の知覚でありながら散文では言語化しにくいために見過ごされてしまう感触を、歌の言葉によって立ち上げているように思う。
  このゆふべ芙蓉の萎るる花踏みて母はふたたび母屋に來たりし
  『百乳文』
  秋晴れのあしたの氣流 白き毛布をかむれる母の庭わたり來し
  『百乳文』
 この二首では、離れから母屋へと、間の庭を渡る母が描かれる。空間を人間が通るとき、足はかならず何かを踏み、空気はかき分けられる。そうしたかすかな感触は、日常生活では自然とノイズとして除去されていると思う。いちいち「右足の下に薄い花びらが」「体の周りに空気が」と意識しながら生活することはできないからだ。ただ、たしかに知覚はしている。だからこそ、〈萎るる花踏みて〉と書かれたときに、柔らかく薄い物を踏んだときの足裏のかすかな感触を、読み手は思い起こすことが可能だ。これらの歌では、〈芙蓉〉や〈気流〉といった語によってたくみにそうした圧覚や冷温覚などの知覚情報を増やしている。一首目で述べた空間把握の言語化のむずかしい部分と同じように、ここでも森岡は、なかなか意識の表面へはのぼってこない感触を言葉で捉えて読み手の意識のなかで再現させることに成功している。本来身体が知覚している感触をノイズとして消さないことで、歌のなかの空間が豊かになる。
 また、これらの歌では母が庭を渡ることによって、離れ→庭→母屋という方向の力が発生している。一方向の動きに貫かれることによって、この三つの空間はばらばらにあるのではなく、互いに接した状態のいわば層として存在するということが、より深く感じられるように思う。特に庭の空気の存在感が格別だ。
  紅茶をばささげて離れにわたりたれ槇の木のへりを流るるにほひ
  『百乳文』
 反対に、母屋から離れにわたる歌もいくつかある。たとえばこの歌では、身体は母屋→庭→離れと移動しようとしている。紅茶を運んでいることで両手は塞がり、腕に力が入り、足だけを静かに動かすときの筋肉の感覚。前述の歌で〈母〉は〈秋晴れのあしたの氣流〉のなかをわたってきていたが、この歌では匂いが流れており、ここでも空気の流れがあることがわかる。〈槇の木のへり〉はやや変わった言い方で、幹や枝のすれすれのところを人が通り、それに伴って紅茶の湯気と匂いが後を引くように流れ、庭の木々の匂いとも混じり合う、というところだろうか。〈流るるにほひ〉と体言止めで終えることで、〈にほひ〉が空間にまさに浮かんでいるような感触もある。
 人が空間を把握するとき、現在の一点からの視覚のみを使っているのではなく、過去の視覚の記憶も使っている。また、視覚以外のあらゆる知覚が合わせて駆使される。森岡の歌では、それをある程度整理して散文の論理的にわかりやすくしたり、抽象化したり概念に近づけたりすることを慎重に避けているように思う。その場の具体のままを言葉で捉えることで、読み手の意識のなかに空間を立ち上げることができるのではないか。歌をつくる上で、題材に「フォーカスする」という考え方が一般的にあるかと思う。たとえば、鳥の歌であったら鳥の羽ばたきという動作に絞って、樹の形や天候や鳥の羽根の色やさえずり、自分の体調やその日何をしようとしていたのかなどは省略して、動作に絞って詠むと景がはっきりする、という作り方があるだろう。しかし森岡の歌ではむしろ、何を省略してはいけないのか、何を整理してはいけないのか、一首にどこまで入り得るのか、ということに考えがめぐっていくように思う。複雑なものをきちんと複雑なまま歌にすること。
 視点位置を能動的に変えているこんな歌がある。
  冬の日にあなゆたかなる椅(いひぎり)の赤き實 位置を變へたれば見ゆ
  『百乳文』
 イイギリは横に広く枝を広げる高木で、ブドウの房のような形状で赤い実をつけるそうだ。その実を、ある位置から見上げたときには枝や幹に隠れて見えず、位置を変えたときに見えた。それだけの内容といえばそれだけだが、私はこの歌に、空間に対する森岡の実践的な態度のようなものを感じる。
  葉(えふ)と果(くわ)と入りこめるをくぐるは悅樂か出でこしときに尾羽の亂れて
  『敷妙』
 目に見えている物は平面ではない、奥行きのある空間のなかで、その存在固有の位置をそれぞれに占めているのだ、ということ。自分の位置を変えれば見え方は変わるということ。運動する場合または静止する場合が、みずからにも対象物にもあるということ。それらを一首のなかでひとつかみに統合しなければ、歌の言葉は空間を捉えられないのではないか。空間における物の存在の仕方になにかただならぬ関心を持って、みずからを空間にのめり込ませて歌をつくっていたのではないかと思う。ここに挙げた鳥の動く空間を詠んだ一首では〈くぐるは悦楽か〉という問いに空間への身の乗り出し方、のめり込み具合を比較的わかりやすく感じられるかと思う。
 このように森岡の歌における空間の捉え方というものに馴染んでくると、そこで起きたことがどんなにささいなことでも魅力的に思えてくる。
  へや二つ走りて通るときありて髪止めのpinその閒に落つ
  『夏至』
 走っている間に〈髪止めのpin〉が落ちる。〈へや二つ〉と場所が具体的に限定され、私はその空間を直方体のように頭の中に思い浮かべている。アルファベットで表記されたpinは、その字面からも細く小さな金属の異物感がでている。二つの部屋のどこかで落ちてしまってみつからない、ということなのかもしれない。しかし味わいとしては、空間を走り通り抜ける身体と、落ちて静止しているpinという物体の、動と静の対比が残る。pinは物を止めておくための道具で、読み手はpinという語からその挟んで止める力(小さな力)を想起するわけだが、走って通過する動き(大きな力)は止まらない。そうした力と力の関係性を私は味わっているように思う。髪止めを落とした、私は走った、というような自分を主語とする動作ではなく力の動き自体が前に出て、主役は自分ではなく空間へとなっていく。
 森岡には時間に関する歌も多いが、それは空間を捉える意識と密接に関係しているのではないかと思う。空間を捉えるために、過去の視界(記憶)や動きを歌に持ち込むと、それに伴っておのずと時間が経過するのだ。動きと時間が不思議に入り組んでいる歌にこのようなものがある。
  厨房よりいつさんに走りゆきたりきへやに居りにしひとときの後 
  『夏至』
 あえて時系列で読みほどくとしたらこうだろうか。〈へやに居りにしひととき〉の〈後〉に〈厨房〉へ移動し、またその後に〈いつさんに走〉っていった、と。歌の上では厨房から走って出たことが最初に書かれ、どこへ向かったのかは書かれない。また、〈ゆきたりき〉とそれ自体が過去として書かれるが、歌を詠んだ主体の今の時間と場所も書かれない。上句の時間を振り返り、またさらに過去にある下句の時間を振り返っている。この歌が〈ひととき〉で終われば、過去へ過去へと遡った歌ということになるが、結句は〈ひとときの後〉だ。その後に上句の厨房の時間があり、結句で時間の流れを元にひっくり返すようで面白い。まるで環になっているようだ。出来事としては〈へや〉と〈厨房〉を移動しているだけ。だが、時間が流れ、それを振り返ることで、何度もその空間を行き来したかのような不思議な感じが残る歌だ。
 「空間を捉える」という言い方を何度もしてきた。これは感覚的に自然と出てきた言葉だが、「空間を描写する」のでは決してないな、と今あらためて思う。外からの客観視とは正反対の、身体をのめり込ませるようなかたちでしか成立しないのだと思う。複雑な空間を複雑なまま言葉にすること。それには空間に身体ごと入り込んでいなければいけない。内側にいるのにできるだけ両腕をのばして、多くをつかまえようとするようなことだ。腕のなかにすべてがおさまることは絶対にない。空間を捉えるとは、なんと魅力的な方法だろう。


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