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恋をすれば傷を負う。『箱入り息子の恋』

<想い出の2013年シリーズ>



『箱入り息子の恋』


 恋とは何か。ひとそれぞれに答えを隠し持っているはずだ。この映画にはその答えのひとつがあると思う。



 恋とは何か。それは「素っ裸で落下すること」だとまずは言える。
 星野源演じる息子が全裸で夏帆扮する娘の家の二階から落っこちる最終盤。彼が大きな事故に遭うのを目撃するのはこれが二度目であるにもかかわらずいや二度目であるからこそわたしたちはそこから大いなる何かを受けとる。最初の事故はふたりのあいだに距離を生んだ。しかし今度の事故はふたりをかつて以上に接近させることになるだろう。
 恋にはどちらかが倒れることも必要だ。しかも一度倒れるだけでは不十分。もう一度倒れなくてはいけない。二度倒れることでふたりの「地面」はようやく固まる。
 最初の事故を振り返ってみよう。息子は誠心誠意土下座までして娘との交際を懇願する。そして娘をかばって自らが車にはねられた。美しく正しい行為である。しかしそれでは足りない。もっともっと内側からこみ上げる強さや本能が必要だ。互いの不在を噛みしめたからこそ相手を真の意味で欲するようになる。願うのではなく行動する。考えるのではなく実践する。悩むのではなくぶち当たる。強がるのではなく弱さをさらけ出しもする。それが「素っ裸になる」ということだ。わたしはこうしたい。本当にそう思ったときカッコなんかつけてはいられなくなる。美しく正しい選択などしている余裕はなくなる。「素っ裸」になっていれば手と手とがすれ違ってしまっても「落下」してしまってもこわくはない。恋はそこまでいって本物になる。 



 恋に障害はつきものだ。けれどもふたりの前に立ちふさがる娘の父親(大杉漣)は障害の象徴ではない。彼は娘の身を心配しているだけだ。娘の交際相手である息子に対して憎しみはない。彼は攻撃しているのではなく防衛しているだけなのだ。大切な娘を守っているだけ。過剰に守るだけ。つまり「過保護」なだけなのである。
 ふたりの交際に賛同し密会をプロデュースさえする娘の母親(黒木瞳)もその方向性が違うだけで「過保護」であることに変わりはない。
 では息子の両親はどうだろうか。息子の父親(平泉成)は「いままで黙認してきた」と言う。この「黙認」ということばに彼の「過保護」ぶりがよくあらわれている。息子の意志を尊重してきたが自分が願うような人生を息子は歩んでいない。だから婚活に踏み切るのだ。己の価値観で子供の幸せを祈ること。ほとんど親が行なっているこの行為はすべて「過保護」に他ならない。親がかりで見合いのきっかけを企むから「過保護」なのではない。ずっとずっと前から「過保護」だった。
 二組の両親のなかで唯一自分が「過保護」であると認識しているのが息子の母親(森山良子)である。彼女の天晴れなほど潔い「過保護」ぶりは夫にも向けられる。息子とのゲームの(一方的な)約束を(勝手に)バトンタッチする感動的なエピソードはその顕著な例である。
 阻むもの。サポートするもの。煽動するもの。見守るもの。全員等しく「過保護」だ。そして愛すべきキャラクターばかりだ。しかし四人とも「善意の第三者」にすぎない。「素っ裸で落下する」ためには「過保護」を乗り越えなくてはいけない。この映画が聡明なのは「善意」を超越しなければ恋は独り立ちできないことをあからさまにしているからでもある。



 恋は祝福されるためにするものではない。
 この映画にはいわゆる「友達」というご都合主義の権化のような人物が登場しない。また「恋のライバル」などという物語を機動させるためだけに存在している道具のような敵役も出てこない。
 たしかに息子は恋をすることでヤリマンと揶揄される同僚女性を味方につける。彼女は助言らしきこともする。しかし彼女はふたりの恋を祝福するためにそこにいるわけではない。彼女は自分の恋を生きている。自分だけの恋を生きている。誰もが自分の恋を生きるしかない。自分だけの恋を生きるしかない。彼女はそのことを全身で体現している。
 最終的に恋はひとりでするものだ。相手はいる。だけど恋をしている自分はたったひとりだ。誰にもできない恋を自分ひとりでするしかない。恋のかたちは全部違う。そのひとにしかできない恋をたったひとりでするしかない。「恋のライバル」が邪魔してくれなくても。「友達」が応援したり励ましたり慰めたりしてくれなくても。たったひとりで自分のかたちを見つけるしかない。 



 恋は盲目と言うけれど。恋はひとに「自分が盲目であること」を発見させる。たとえば相手が自分を見ていたわけではないのに目が合ってしまったと錯覚する。勘違いが何かを勝手にはじめてしまっている。恋はいつもあとから追いかけてくる。
 わたしたちは相手のことをまだ何も知らない。知らないから知りたくなる。誰かが誰かのことを知りたいと想う。想われた誰かは想った誰かに「教えてあげること」を見つける。自分がそのひとに「教えてあげられること」を発見する。たとえば吉野家の牛丼の食べ方。あるいは立ち食い蕎麦の食べ方。自分がそのひとにだけ「教えてあげられること」はたくさんある。
 わたしたちは恋をすると盲目になる。盲目だから見つけられることがある。盲目にならなければ発見できないことがこの世界にはある。
 正直に生きることは難しい。正直に生きるには勇気がいる。けれども。娘が母親の目の前でそうしたように。ひょっとするとそれは小さな小さな丘をのぼりてっぺんに立ちなだらかな下り坂をゆっくり降りてくるようなそんなことかもしれない。 



 カエルが見えているのか見えていないかわからないような目をこちらに向けて鳴いている。仏壇の上に飾られた四つの遺影が眺めている。「YOU LOSE」のテロップ文字。「素人だな」のゲーム音声。
 恋をしているわたしたちは圧倒的な初心者だ。恋をすれば傷を負う。いつも傷だらけ。
 だけど点字で手紙を書く。点字の手紙を指で読む。わたしたちははなればなれだ。けれども相手に触れている。そして。たったひとりで自分たちの恋を祝福する。わたしたちの恋を。

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