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わたしたちはどうなるかわからないまま喋り、どこに行くかわからないまま今日も生きている。映画『水深ゼロメートルから』

 デートするとき、話題が途切れないように、あらかじめ話すネタを用意したことがあった。交際が始まったばかりだったからなのか、相手に緊張していたからなのか、それなりに退屈しない男と思ってもらいたかったからなのか、おそらく、その全部が理由だったに違いないが、その日、彼女に話すことをメモしながら整理している自分の姿は、思い出してもひどく滑稽だ。
 おしゃべりとは、そういうものではない。話題が途切れないように意識することは礼儀としてはアリかもしれないが、具体的な準備をする段階でそれはもう不遜な行為な気がする。いまとなっては。
 なにが不遜か。
 あらかじめ用意したことを実現できると考えていることが不遜なのだ。会話はやりとりである。予定通りにいくはずはない。相手の反応、答え方によって、流れは変わっていく。こちらにいくら話したいこと、伝えたいことがあったとしても、それがそのまま顕在化などするはずがない。そこを無理に押し通すことは、相手という存在を無視することでもある。
 どうなるかわからないから、わたしたちは逢うし、向きあうし、言葉を交わすし、感じることができる。その行方は、いつだって予測不能だ。
 誰かと話すことは、相手を理解することであり、自分を理解してもらうことでもあるが、それが全てなわけではない。いや、むしろ、そういった部分はごくわずかである。会話の根本に目的があるわけではない。そもそも何かが目的化されたコミュニケーションなんて、不純だ。それはもはやコミュニケーションではない。ただの打算をやりとりにしてしまったら、相手に申し訳ないし、自分という人間にも申し訳ない。
 この映画は、ある夏の日のプールで出逢った、4人の女子高校生の姿を描く。そのうちの3人は同学年で、1人は先輩。面識がある程度で、別に仲良しではない。つまり、彼女たちはグループではない。
 高校のプール。水はない。ある事情で、4人はこのプールを入れ替わり立ち替わり掃除することになる。掃いても掃いても、なくならない砂、砂、砂。そのありようと呼応するかのように、彼女たちは、自分たちのジェンダーをめぐる終わりのないおしゃべりをすることになる。
 まだ高校生。もう高校生。それぞれが自立している。それぞれの考え方も、常識も、当たり前に違う。女性であることの息苦しさも、不自由も、社会的な立ち位置も、疑問も、不満も、現状へのわだかまりも、未来への不安も、すべて異なる。だから、ガールズトークとディスカッションの境目はどんどん不鮮明になり、激論からも合意からも遠く離れて、ひとりひとりが、それぞれ別個の人間として、己の未分化なアイデテンティティに、ごく自然に向き合うことになる。
 先行きなど、何も決まっていないからこそ繰り広げることが可能な、言葉と言葉のやりとり。お互い違う人間だというシビアな認識があるからこそ向き合えるし、別に友達でもないから、明日からのことにも忖度せずに、言いたいことを言い、言いたくないことは言わずに済ますことができる。その健全さ。
 そこには、妙な気遣いはない。闘うわけではないし、ぶつかりあうわけでもないが、程よい荒野のような緊張感があって、すがすがしいコミュニケーションが成立している。
 彼女たちは、すこやかだ。
 饒舌な人間が喋り、寡黙な人間が物言わぬ。それでいいのだ。誰もが無理をしていない。自分らしさを発揮することも、自分が何者かを証明しないことも、全部が自由。いずれにせよ、その人はその人でしかない。
 話すことも、話さないことも、ここではどちらも認められている。やかましくてもいいし、静かでもいい。どっちでもいいのだ。
 彼女たちは、何も準備していない。何も準備していなくたって、わたしたちはみんな、水のないプールに立つことができる。見ず知らずの、未知の相手と、束の間、この時を過ごすことができる。
 いいじゃないか。これでいいじゃないか。あの頃の自分に教えてやりたい。

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