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女のひとになりたいと思ったことがある。ホン・サンス『逃げた女』について。



 女のひとになりたいと思ったことがある。何度も。何度もある。
 ここ数年は思わなくなったが、以前は、女のひとになったら、世界をどんなふうに感じられるのだろう、そして、女のひととどのように接することができるのだろう、女のひとと同性として友だちになるのはどのような感覚だろう、女のひととして物事を考えるのはどんな感触だろう、女のひととして生きるのは、女のひととしてゆめを見るのは、女のひととして甘いものをいただくのは、女のひととしてワインを味わうのは、どんな作用をもたらすのだろう、そんなことをとりとめもなく考えていた。
 日本語は、女のひとと仲良しだと思っている。わたしの仕事は、日本語とともにある。だから、女のひととして、日本語を紡ぐとどんなふうな文章を創ることができるのだろう。そんなあこがれもある。
 ないものねだりだ。憧憬も、羨望も、ぜんぶ、ないものねだりだ。
 女のひとが、女のひとと、どんな感じでおしゃべりしているのか。そこにも興味がある。ものすごく興味がある。
 だから、映画のなかで、女のひとどうしが語りあう場面があると、とても、ときめく。
 この映画は、ほぼ全篇、女のひとと女のひととが語りあっている作品だ。
 ひとりの女性が、三人の女性の許を訪れる。それぞれとの対話。基本的には、ただそれだけだ。
 主人公にとっては、先輩となる女性がふたり。そして、もうひとりは、おそらく同年代、対等だ。
 三つの関係性は、異なる。主人公の話し方や、話題の選び方、テンポ、表情、ニュアンス、全部違う。そこから見えてくるものがある。
 それぞれの信頼関係は、まったく別個なものである、ということ。
 女性と女性と言っても、関係性は一定ではない。人間と人間、個性と個性の重なりあい。だから、コミュニケーションも違えば、最小のコミュニティとしてのあり方も全然違う。
 親密さというものには、無限の拡がりがある、ということに打ちのめされる。
 しかし、わたしは男性なので、その違いにも、女のひと同士にしか起こりえないなにかを見出している。
 やはり、想う。久しぶりに、想う。
 女のひとになってみたいと。
 どんなに相手を敬っていても、疑心は存在する。
 どんなに相手に気持ちを委ねていても、冷静さは手放さない。
 どんなに緊張感のある相手に対しても、一期一会の慈愛はもたらされる。
 主人公の性格なのか、女のひと特有の現象なのか、わたしにはわからないが、わからなくていい。
 ひととひととが対峙し、建前と本音を混じり合わせながら、いのちのやりとりをするということ。そのことへの讃歌がここには記録されていて、それは、このスクリーンに映っているひとたちが女性だからなのだと思う。
 女のひとであることは素敵だ。
 この映画には男性も登場するが、すべて後ろ姿である。女性との対話もあるが、女のひとどうしの語らいとはまるで別だ。
 男性監督の作品だ。だから、あくまでも、男性の視点からの女のひとどうしの語らいではある。
 けれども、画面に映っているのは、女優たち、つまり、女のひとたちだ。彼女たちは、いずれも、女性としてことばを話している。女性として、そこに存在している。
 女のひとと女のひとが向きあうことによってしか生まれない空気、風、匂い、ぬくもり、テクスチャ、響き、光、色彩、そして、まごころ。
 そのすべてが愛おしい。
 女のひとはすばらしい。
 映画はすばらしい。
 
 
 
 

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