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もしかしたら彼女たちは、あの日のことをいつか忘れてしまうかもしれない。だが、わたしたちが、この映画を忘れることはない。山下敦弘『水深ゼロメートルから』

水深ゼロメートルから


『カラオケ行こ!』が大好評の山下敦弘監督が、また新たな傑作を送り届ける。
山下が『どんでん生活』でわたしたちの前に姿を現してから四半世紀。彼のキャリアの中でも、この『水深ゼロメートルから』は今後、特別な場所に位置することになるだろう。

山下敦弘の美徳はさまざまにあるが、その大きなものに【メッセージしないこと】がある。
そして、この映画作家を特徴づける重要点に【季節の終わり】がある。
本作では、この二つのエッセンスがまばゆいほどの神々さで分かちがたく結びついており、彼のフィルモグラフィを全く知らない(たとえば『カラオケ行こ!』しか観たことがない)映画観客にも、深くみずみずしい心的領域を付与することになるはずだ。

夏の日の放課後。あることから、水のないプールを掃除することになった3人の女子高校生、そのうちの1人の先輩。基本的には、この4人のおしゃべりを、プールの中だけで追いかける。
ガールズトークと呼ぶには、かなりシリアスな、女性として生きることについてのディスカッションも含まれており、会話のほとんどは、和やかな内容ではない。ところが、本音と論議、建前と開き直りが交錯するスリリングなありようは決してメッセージに堕すことがない。
彼女たちは仲良しグループではなく、たまたま同じ時を過ごしているだけにすぎない。まあまあ顔見知りではあるが、この4人で会話することはおそらく、これからの人生でもう二度とないと予測できる関係性だ。だが、そんな情況だからこそ、人には話せることがある。山下は、そんな尊さを、じっと見つめる。つぶさに、という冷徹さでもなく。大らか、というような寛容さとも違う。絶妙な塩梅で、キャラクターそれぞれではなく、刻一刻と変幻してゆく、束の間のリレーションシップに寄り添う。

あらゆることが見渡せて、その全てをクリアに手にすることができる。マクロでミクロなパースペクティブによる、人間観察の珠玉がスクリーンに記録されている。
アクロバティックな目眩しや、もっともらしいお説教などの不純物は全く存在しない。
彼女たちの間で語られる、社会的にカテゴライズされる女性性への違和感、不満、不安、絶望はすべて切実で現実的なものだ。しかし、その言葉がメッセージ化する瞬間は決して訪れない。

なぜなら、映画とは、メッセージするための道具ではないからだ。この、あらゆる意味での潔さと潔癖さ、決然とした姿勢の完全熟成がここにある。山下敦弘は、人間が今を生きているという、その儚さを大切に濾して、神のひと雫をわたしたちに垣間見せる。
4人の語らいは永遠ではない。夏という季節に終わりがあるように。一日には必ず終わりがある。どんな楽しい旅もやがて終わるように。どんな修羅場もいずれ終わる。明るくも暗くもなく、すべて等価で、ヒエラルキーがなく、媚びも従属もない、自立した関係性を育んだ4人の【ひと・とき】も必ず終わる。

山下敦弘は、メッセージしない。だが、物事は必ず終わりを迎えるという真実を映しだす。
わたしたちは実は、毎日を生まれ直している。山下の映画を観ると、いつもそのことに気づかされる。
わたしたちはみんな、時を見届け、時を看取っているのだ。いつもいつも。無意識のまま。
『水深ゼロメートルから』のラストで何が起きるか。どうか見届けてほしい。どうか看取ってほしい。

もしかしたら彼女たちは、あの日のことをいつか忘れてしまうかもしれない。だが、わたしたちが、この映画を忘れることはない。

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