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無邪気で、用意周到で、屈託がなく、抜け目なく、あからさまで、謎めいている。「クロサギ」の平野紫耀について。



「クロサギ」。2006年の人気作(山下智久主演)のリメイクだ。
父親が詐欺に遭い、一家心中に追い詰められ、九死に一生を得た少年が成長、シロサギ(詐欺師)を騙すクロサギとして、復讐の詐欺を繰り広げていく。
詐欺師のみを標的にする策略の痛快さ。一方で、家族を壊滅させた男たちを追い詰めていく主人公の絶望的リベンジが凝視される。
軽やかさの底辺に激情が仕舞い込まれた物語には、普遍性がある。詐欺の手口は年々進化しているため、かなりの現代仕様が施されてはいる。だが、いつの時代にも変わらぬ娯楽の精神がここには波打っており、エモーショナルな勧善懲悪ものと言えるだろう。

だが、そうした定型のフォーマットから外れた地点に、本作の非凡さはある。主演、平野紫耀(King & Prince)の類稀なる演技パフォーマンスは、21世紀最良の驚きと呼んで過言ではない。

役者であれば誰しも詐欺師を演じたいと思うだろう。否、詐欺師を演じることができなければ、演技を生業とする資格などない。
なぜなら、詐欺には【演じることを演じる】合わせ鏡のような側面があり、そこでは演技者の客観と主観とが同時に強く試されることになる。言い換えるなら、技術と魅力、双方の拮抗とその純度が白日の下に晒される。
つまり、詐欺師を体現するということは、演じる者のポテンシャルとモチベーションがバレるということ。もちろん観る側にとっては、実にスリリングでエキサイティングな見せ物となる。

詐欺とは頭脳戦なのだから、言葉を操るインテリジェンスに長けていなければならない。そして、その知性が駆使される際、懸命な汗が生じていては二流、三流どころか失格。ここぞという時ほど、軽快でなければいけない。古今東西、数々の名優たちが詐欺師を演じ、颯爽とした明晰さを披露してきた。華麗な詐欺師など、もはや見飽きている。

では、平野紫耀の何が新しいのか。

一言で言おう。

平野は【間を喰う】のである。

騙す側、騙される側に限らず、人と人とが向き合う時、そこには自ずと【間】が生まれる。それは【真】と呼んでも、あるいは【魔】と呼んでもいいのだが、会話と会話の狭間に、ふと事故のように生じる歪みやすれ違いは、ただの空白ではない。フランスでは【天使が通り過ぎる】とも形容される、不思議な、そして神聖な沈黙。

おそらく、平野紫耀は、この【間】が大好物なのだ。それが生まれると同時にかっさらってしまう。いや、ときには兆しだけでも食べてしまうし、ときには自分から仕掛けて【間】を派生させる。とんでもない食いしん坊である。

しのびこみ、かすめとる。

無邪気で、用意周到で、屈託がなく、抜け目なく、あからさまで、謎めいている。

彼の【喰い方】には際限がなく、スープやソースをパンでぬぐって平らげてしまうような底なしのチャームがある。

ポーカーフェイスで、自分のリズムに持ち込んでいくのが詐欺の基本。この話術をきちんとキープしながら、独自の変拍子で【間】をくずしていく。くたくたに煮込まれた鶏肉がひょいとほぐれてしまうような呆気なさで、その【間】をお口に放り込む。

時間がズレる違和を観る者にほのかに感じさせながらも、むしろこの感覚を佳きスパイスとして、いま生まれたばかりの【間】の新鮮さ、みずみずしさを可視化し、ペロリといく。

平野がおこなっているのは、【間】を揺らし、磨き、活性化することであり、それはすべて【美味しくいただく】ためである。

わたしたちは、美味しそうに食べるひとのことを見れば、しあわせになるし、そんなひとのために料理したいと想う。この、ごくごく当たり前の真実に、平野紫耀は侵入する。

だから、共演者たちはみんな真剣であると同時に、とても愉しそうであり、わたしたちのしあわせはさらに倍増することになる。芝居を心底愉しんでいる者たちの饗宴は、愉快痛快この上ない。

もちろん、ドラマにはシリアスなシークエンスも、胸揺さぶる瞬間も、言葉にならないような感情も、ひしめいている。それらすべてを生き生きとフレッシュなものに高める魔法を惜しみなく注ぎながら、平野紫耀は人と人とのコミュニケーションを、あふれるバグもろとも肯定=祝福している趣がある。

予期せぬ【間】が通り過ぎたとき、ほとんどの人間は不安に駆られ、緊張を余儀なくされる。それは詐欺師であっても変わりはなく、むしろ詐欺師こそ、この不安や緊張に敏感に違いない。

平野は、主人公が孕む拭いきれない悲劇の深層を誤魔化さず、底辺にこびりつかせながら、たったいま生まれた【間】を終わらせ、相手に笑いかける。不安と緊張の只中にある詐欺師たちは、ただそれだけで騙されてしまう。この手口は毎回、披露されるが、その都度、新しい息吹きを感じる。

彼が、その微笑みにいたるまで、いかなる演技航路を歩んでいるか。芝居のドリブル、緩急のダイナミズム、発語のフォーメーション、すべてが超一流のアスリートのように美しい芸術だが、平野が提示しているのは、とてもシンプルなこと。

【間】は愉しい。
【間】は美味しい。

この真実に気づいた者は、もう平野紫耀と「クロサギ」の虜だ。
【間】を操り、捌き、調理し、フレンドリーに、カジュアルに、縦横無尽に、単刀直入に、みんなと一緒に舌鼓を打つ。そのとき、キャストもスタッフも視聴者も境目がなくなる。

漠は夢を喰うが、平野紫耀は【間】を喰らう。
ただそれだけで、ドラマはこんなにも面白くなる。

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