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そのひとだけのもの。『夜明けのすべて』の松村北斗について。

『夜明けのすべて』は、映画俳優としての松村北斗、最初の完成として後世に伝えられていくだろう。

人が人を演じるとはどういうことか。ここには、その根源の魅力が記録されている。

松村北斗はここで、パニック障害に陥った青年の、あたらしい日常をかたちづくっているが、そうした設定や状況に意味があるわけではない。見つめるべきは、もっともっともっと単純で普遍的なかけがえのなさである。

たとえば。

彼の歩きが、その人だけのものであること。

彼のまなざしが、その人だけのものであること。

彼のうつむきが、その人だけのものであること。

彼の静止が、その人だけのものであること。

彼の機転が、その人だけのものであること。

彼の笑みが、その人だけのものであること。

彼のため息が、その人だけのものであること。

松村北斗は、ごくごく当たり前のことに思える真実を、宙(そら)にまたたく七つの星のように、銀幕に定着してみせる。

つまり。

どんな孤独も、どんな一瞬も、どんな移ろいも、どんな揺蕩いも、どんな知性も、どんなぬくもりも、どんな脱力も、その人がその人であるための、最初で最後の証明であることを、ひっそりと、しかし確かに、丁寧に、慈しみながら、体現している。

とりわけ松村北斗がこの山添孝俊という人物から生まれるあらゆる動きに張り巡らせた速度には、目を見張るしかない。

ゆったりとしてはいるが、緩慢ではない。遅いとか、速いとか、そうした次元で語ることができるものではなく、鼓動や呼吸やまばたきや明滅や起床や就寝やひらめきすべてに、密度あるスピードを付与している。

魂の質量が、人物固有の速度を決定づけているということを、ここまで深遠な写実主義で描き得たことに感嘆する。

山添孝俊は、ある症例に苦しめられている。だが、松村北斗は、その症例すらも、その人だけのものであるかのように、大切に表現している。

その真摯な抱擁は、レンブラントの絵画が見つめる光のように尊い。

演技というものが行き着く、一つの場所。

『夜明けのすべて』の松村北斗はまさにそれをわたしたちに見せている。




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