わらび餅ばかり食べて生きています。

若いころ、西のひとと、ほとんど逢うことなく、仕事をしていたことがあった。
夏になると、食欲がなくなるらしく、「わらび餅ばかり食べて生きています」という私信が記憶に残っている。
西のひとの、夏場の、やせ細った躰を、支えるにふさわしいと、考えられる、わらび餅に、出逢ったことがなかった。
そもそも、わらび餅を追いかける趣味は持ち合わせていない。
しかし、時折、食べる機会があると、あのひとが食べていたわらび餅は、こんなんじゃないだろうな、と溜息をつくしかないのだった。

わらび餅を食していて、いつも気になるのは、この、食べるものをむせさせようと画策しているとしか思えない、この粉の量はいったいどういうことなんだろう、余るに決まっていて、実際、余ってしまう、あの粉はどこに行ってしまうのだろう、ということである。
粉だけを食しても、美味しくないところが、多い。

粉に包まれた、繊細な餅、と表現できるような代物も、おそらく西のほうにはあるのかもしれないが、残念ながら、そのようなものにめぐりあう機会はなかった。
それよりも、明らかに、粉と餅が、すれ違っているよなあ、一緒に生活していないよなあ、という家庭内別居みたいなわらび餅がほとんどであった。

さて。
ここんちのわらび餅だが、やはり粉は多すぎると思う。
とはいえ、むせる危険性は皆無である。なぜなら、粉自体にしっとりとした潤いがあるからである。
こまやかさよりも、やさしさがある。その「あたり」が、味につながっている。
じわじわくる粉である。
藁葺き屋根のような、遠い夏の日の郷愁をかきたてないこともない、粉である。

この粉のやさしさが、餅を、指先だけで、抱擁している。
腕はもちろん、手のひらさえ使わずに、指のはらだけで、つまむのではなく、抱きしめるセンスが、ここにはある。
わらび餅はテクスチュアがいのち、だとおもうのだが、餅の、さわやかな受け答えも、溌剌としていて、わたしが面接官なら、よし、決めた、この子は即戦力だ、と根拠のない太鼓判をおすに違いない、好感度というものを、嫌味なく身につけていると思った。

あの西のひとには、長いこと逢ってないし、いまのところ逢う予定もないのだが、もし、逢うときが訪れるとしたら、手みやげにしてみよう。

「あなたが、食べていた、わらび餅は、どんなわらび餅だったのですか」と、ようやく訊ねることができるかもしれない。

ちょうど1000文字。

2014.5.11

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