「二宮和也マナー」をめぐって

#二宮和也

二宮和也は、自身の役や演技にのめり込む演じ手ではなく、作品全体に留意した上で、己をどのように配置したらよいかを思考し実践する「作り手」だ。とりわけ熟慮する時間が与えられたという本作には、彼の本質が如実に表れている。2002年と1930年代が交錯する映画の構成は決して単純なものではない。だが二宮は、佐々木充という一筋縄ではいかないキャラクターに訪れる感情グラデーションの明暗を逆算によって体現し、充の顔そのものがこの映画を「導く」作用をもたらしている。しかも、台詞の発語に頼らず、ほぼ無言の相貌のみによってそれを達成した。わたしたちは、相手の話を聴くという密やかな行為にこんなにも多様なバリエーションがあるということに驚かされるだろう。もはや「二宮マナー」と呼ぶべき作法だと思うが、彼は最低限の動きだけで深く豊かな機微を幾つもかたちづくる。険しくもあり、切なげでもある眉間の陰影。鋭くもあり、怯えているようにも映る瞳の訴求力。それらが組み合わさり、微かに顔面が傾けられたとき、もう二度と出逢えないのではないかと思える情景がその都度異なる感触で出現する。かけがえのない一瞬一瞬。だからわたしたちはそれを逃すまいと目を凝らす。気がつけば、カメラではなく、観客の網膜が、ごく自然に二宮和也の姿をクローズアップしている。『ラストレシピ』は料理の映画だが、二宮の表現はコースの一皿というより、それらのポテンシャルを引き出し高める一杯のワインに似ている。決して出しゃばることなく、食事時間の「かたち」を際立たせ、明瞭な流れを作り上げる。シャンパーニュから白へ。赤から食後酒へ。その波間で、わたしたちの感覚は研ぎ澄まされ、他の俳優の演技や、映画そのものがはらむ「味わい」を頬張るには最良の状態へとたどり着く。観る者の「心のまなざし」をつかまえる二宮の芝居はスマートでシルキーだが、繊細な口あたりの先には獰猛な「導き」のエナジーが満ちあふれている。彼にはいつか宗教家を演じてもらいたい。きっと、たおやかな「魔」を撒き散らしながら、ハーメルンの笛吹き男のようにわたしたちを何処かに連れ去り、彼岸の淵で溺れさせるはずだから。

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