見出し画像

紅白直後の平野紫耀のsignから、キンプリという現代とmessageを考える。

紅白では、歌詞をまったく見てなくて、彼らのダンスに集中していた。吸い寄せられ、ダンスの渦のなかにいるような(かごめかごめ遊びの真ん中にいるような)感覚だった。

正直、ichibanというタイトルを忘れていた。

NHK紅白の公式twitterに、ビハインドとして、本番直後のキンプリの姿がおさめられている。

あそこで平野紫耀は、テレビカメラに向かって(わざわざ手を組みかえて)“いちば〜ん”とメッセージした。

あれは、“おれたちがナンバーワンだぜ!”というようなマッチョな主張ではなかった。

そこに現代がある。

これは、平野紫耀のハスキーな声質にも関係していることなのだが、キンプリという集合体から「圧」は感じられない。かっこいいのだが、オス性をことさらに際立たせるわけではなく、かと言ってジェンダレス/ボーダレスをあからさまに掲げるわけでもない。この点は重要だとおもう。

その予感はセブンイレブンのcome comeポスターを初めて見たときからあったかもしれない。キラキラの質が少し違うように感じられた。よくわからない。いまもよくわからない。だがまぶしいキラキラではなくなぜか見つめたくなるキラキラだった。超然とすることも、押しつけることもないキラキラだった。

ひとりひとりが煌めいているように感じられた。わたしのなかで名前と顔が一致していなかったが、それでも彼らのひとりひとりが、個別に屹立していた。それぞれの輝きが独立していた。だが、分離しているわけでもなかった。あゝ、ここはそれぞれが、それぞれのままで輝ける場所なのだなと思った。

そのスペース=宇宙で、彼らはひとりひとり光っていた。そのことを好ましく感じたのだと、いまなら言葉にすることができる。

ichibanとは、ひとりで輝くこと、宇宙でたったひとつの星として光ること、その現象をあらわしているのではないだろうか。

ひとりで、ひとつで、煌めいていいのだよ。

そんなサウンドが、ichibanという文字からは感じとれる。

漢字でもなくカタカナでもなく平仮名でもなく大文字の英語でもない密やかな連なりが、この現象を、彼らから、わたしたちに手渡すための呪文に感じられる。祈るために必要な言霊。

ichiban

わたしたちはみんな、淵に立っている。ぎりぎりの瀬戸際で、かろうじて呼吸している。この現実はコロナ以降、顕著になった。

だけど。

淵に立ちながら、輝いてもいいんだよ、光ってもいいんだよ、そんなメッセージを、あのダンスと、紅白直後の平野紫耀の発語から、わたしは受けとった。

King & Princeが、星雲なのか星座なのかはわからないが、メンバーひとりひとりが、ichiban星として輝くこと、光ることによって、だれもが、じぶんというichiban星なのだと、伝えているような気がする。

つまり、わたしたちを、照らしだしているのではないだろうか。

紅白のダンスは苛烈だった。
凄まじく真剣だった。
だが、それは祈念だったのではないか。
強い祈りだったのではないか。

“あなたはichibanだ”

紅白直後の平野紫耀は歩きながら、キンプリを見つめるひとりひとりに、そう言っているように思えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?