生きてるものはいないのか

『生きてるものはいないのか』

 311以後に名づけられたとしか思えないタイトルだが、そうではない。これは2007年10月から11月にかけて上演され、翌年、第52回岸田國士戯曲賞を受賞した前田司郎作・演出による同名舞台を映画化したものなのである。

 優れた作品には決して朽ちることのない普遍性が宿っていることなら誰でも知っているが、この戯曲の強度はもはやそのような地点には留まってはいない。どこまでも現代的なのである。そう、予見性ではない。311を予告していたわけでも、予言していたわけでもない本作が、311以後をむしろ照射するような凄まじい光を放っている理由は、ただひたすら現代的であったからに他ならない。311以後、何もかもが変わってしまった。そのようなことを、したり顔で語るひとが多い。けれども、ここにあるのは311以前にも現代はあったし、また311以後もその現代は継続されているという現実を見据えるまなざしだ。なにかを匂わせたり叫んだり集約したり暴いたりといった「どや顔」の映画の対極に存在している。

 大学キャンパス内で原因不明の病(だと思われる)で突然死していく人々を見つめる。巨大な密室で展開する緊迫のミステリーではない。あるいは最後のときをどう生きるかを問い謳う感動のパニック群像劇でもない。ただ人は死ぬ。それだけなのである。そしてすべては原因不明のまま終わる。「腑に落ちる」ことや「理にかなう」ことが映画だと考える観客には受け入れられないだろう。だが、物事を自分の力で考えようとする人、あるいは目の前の事態を自分なりに感じようとする人なら、必ず強く揺さぶられ、深く打ちのめされるはずだ。つまり『生きてるものはいないか』という映画は、あなたという「たったひとり」の観客の能動性を試している。世界中に「たったひとり」しかいないあなたの能動性を。

 登場人物たちがどのように生きてきたか、その背景らしきものは描かれない。いま現在、ここにうつしだされているものがすべて。人間はそれ以上でも、それ以下でもない。そう告げているようにも思える実に即物的な描写がつづく。彼ら彼女らは、語らいのなかで、死んでいく。同時に死ぬことはない。一方が死に、一方はそれを見守るしかない。死んでいく者、まだ死んでいないけれど、いずれ死ぬ者。この世界には、そのふたつしか存在していない。

 ああ、人は、このように死んでいくのだな、自分だったらどうしよう……と考える時間はほとんど与えられないまま、彼ら彼女らは死んでいく。そして死んでいく者たちの死に様には、ある一致が見られる。その言動は悪あがきのようでもあり、茶番のようでもある。その、あまりに人間的な、単純な一致に、わたしたちはつい笑ってしまうかもしれない。そして、笑ったあとに考えるのである。感じるのである。

 わたしたちはなぜ生きてるのか? この大命題を、こんなに涼しい顔で、堂々と描いた映画を、わたしは知らない。

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