生きてるものはいないのか

『生きてるものはいないのか』

 轟音のなかに静謐があるのではなく、静謐のなかに轟音がある。永遠のなかに一瞬があるのではなく、一瞬のなかに永遠がある。石井岳龍としてわたしたちの眼前に姿をあらわした作家は転生する以前から、そのような宇宙をかたちづくってきた。しかしながら、彼は本作のこころみによって、ついに限界を突破したといえるだろう。ある境地に達したというよりも、だれも見たことのなかった地平に降り立ったと形容すべきである。洗練と野性の終わらないデッドヒートの先に、宇宙の爆発があった。前田司郎と呼ばれるもうひとりの作家がつくりあげた、けだるさのなかに潜む透明なひずみをまさぐるようにして、石井岳龍は最後の、そして最初の普遍をつかみとった。

 冒頭。なにかサインを描いているような鳥の群れに導かれるように、わたしたちは純白がはらむノイズを目撃する。音楽が点滴のようにプレイされ、映画がはじまる。音楽は絶え間なく分断され、沈黙とエコーの、ことばとアクションの、内側と外側の関係性を際立たせ、震わせていく。けれども、それは暗喩としての対比ではない。それらが同時にそこにあることを指し示す。沈黙とエコーは、ことばとアクションは、内側と外側は、ともにそこにある。

 ここで描写されていく関係性とは、つまりヒエラルキーのことである。学生たちの語らいは常にヒエラルキーを組織していく。三人以上の場合はもちろんのこと、たったふたりの場合でも、あの兄妹のすがたを見れば明らかなように、ヒエラルキーは派生する。それは、ひととひととのヒエラルキーのことだけでなく、あるひとのなかにある意識と無意識のヒエラルキーのことだ。意識が無意識より上にあるのか、無意識が意識の上にあるのか、それはわからないけれども、この集団のヒエラルキーと個人のヒエラルキーがワイヤーのように束になって巻きつきあいながら、あるものが死んでいく様を活性化する。そのとき、笑いが生まれる。笑いながらわたしたちは気づくはずだ。だれかはどこかに属している。だれかはどこかに属していない。それがコミュニティの最小の原則だということを。この構造は、死ぬもの=見守るものという関係性の反復によって、よりはっきりと浮かび上がる。この残酷な構造のなかでは、受け流すことも、反応することも、食いつくことも、拒否することも結局、すべて同じことだ。気遣いも、皮肉も、見下しも、無関心も、そこに差異はない。継続と遮断が乱れなく行進=更新されていく。緩和もない救済もない。ただ音楽が注射されていく。

 映画は、依存と遊離、模倣と逸脱、血と他人、距離と交通、接近と盲目、確かめることと遠ざかることなどなど、相反する要素を抱き合わせながら、黙々とそれらを記録する。

「どれくらいかかるの?」ーー時間はなんのためにあるのだろう。それは待つためにあるのだろうか。過ぎていくのを見届けるためにあるのだろうか。わたしたちはなにを待ち、なにを見届けたいのだろうか。

 いま、この画面のなかで死ぬ真似をしている俳優たちもやがて現実に死ぬ。それを見つめている監督やスタッフもいずれ死ぬ。これを見つめているわたしたち観客もそのうち死ぬ。だとしたらーーあらゆる登場人物の死に様だけを可視化していく映画は、そう告げる。あらゆる思考を置き去りにしながら。

 死が現象なのだとしたら、生きてることも現象だ。そして人間の感情もまた現象に付随する金魚のフンのようなものでしかない。ゆらゆらと水槽のなかで垂れ下がりながら浮遊しているそれをばかばかしいと捉えるか、いとおしいと捉えるか、おぞましいと捉えるか、かわいいと捉えるか、それはわたしたちに残された最後の自由である。最初の可能性である。

 断定してもいいし断定しなくてもいい自由と可能性。「生きてるものはいないのか」という疑問形が断定でも非断定でも曖昧でも宙ぶらりんでも問いかけでも答えでもないなにものかであるのと同じように。

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