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送り出し事業のこれまでとこれから - OB×現役対談記事 Vol.1

こんにちは。
アイセックは100以上の国と地域の仲間と共に、若者のリーダーシップを育む事業を行っている、学生による非営利組織です。私たちは、海外に渡航して、現地での社会課題に向き合いながら自分ができることを考え、解決に取り組むインターンシッププログラムを運営しています。

2023年度、ついにパンデミックの影響により停止していた海外インターンシップ事業が再開しました。アイセック・ジャパンで長く続く海外インターンシップ事業の変遷とこれからの可能性について、事業停止時の事務局次長兼送り出し事業統括を務めた小西快様をお招きし、2023年度事務局長高橋祐哉とともに語っていただきました。

合計で3部構成になっており、今回はその初回となります。
それでは、ぜひご覧ください。


高橋:本日はアイセックの送り出し事業に関して、過去、 現在、未来、時制の観点を軸にお話ししていければと思います。対談に先立ちまして、初めに快さんの自己紹介とどのようなアイセックでのご経歴を歩まれたのかを教えてください。

小西様:小西快と申します。アイセックには2017年度に入会し、一橋大学委員会出身です。4年間、送り出し事業に携わり、1年生の時はガーナで、教育、ヘルスケア、農業の3つを含むコミュニティ開発を主軸としたプログラムの開発など、1メンバーとして活動していました。また、自分も別の送り出し事業のプログラムに参加して、アイセックが展開する事業は素敵な経験だなと実感し、どんどんアイセックにのめり込んでいきました。以降、2年目は委員会で送り出し事業のプロジェクトリーダー、3年目で一橋大学委員会の委員長、4年目で事務局送り出し事業副委員長兼送り出し事業統括を務めました。

高橋:自分はコロナ前の2019年に入会して、一年生の夏に海外インターンシップに参加することができて、快さんが開発をしていたガーナでコミュニティ開発をするプログラムに参加していたことを思い出しました。

小西様:今振り返ってそのプログラムはどうでしたか?直後の報告会では、とても楽しかったというよりも色々複雑なことを感じていて、消化しきれていないイメージだったので。

高橋:振り返ってみると、おっしゃる通り、思い描いていたサクセスストーリーではなかったと思います。

渡航前に想定していたプログラムの内容とのギャップを感じていました。渡航先で何か価値を残したかったのですが、逆に僕の方が学ぶことが沢山あって、自分は現地の人に何もできていないのではないかともやもやする瞬間がたくさんありました。異文化理解の瞬間に会えたけれど、自分が得られた経験とアイセックで掲げられているリーダーシップを育むこととのギャップを痛感していたんです。少なくとも社会にインパクトを与えられたのかについては自信がありません。

小西様:今の話がコロナ前のインターンシップをよく表していると思います。特に、"社会課題の解決"みたいなものを、当時の運営メンバーも意識していたのもあって、異文化理解とか現地のことを理解し、実感してもらうのではなく、自分が現地の課題を解決するために、どうリーダーシップを発揮するべきなのか、その登竜門として海外インターンシップがあるという一面が特に強かったかなと思います。

ただ、渡航したメンバーは、やはり自分の何もできなさ、不甲斐なさを感じることがあるようでした。渡航してみて楽しかったというよりかは、そもそもの世界の見方がちょっと変わったり、自分のやりたいことってなんなんだろうと考えたり、こうしたことを考える一つのきっかけ作りを担っていたのが当時の送り出し事業の在り方だったと思います。

高橋:実際に快さんご自身も渡航されていましたが、快さんの経験はどうでしたか?

小西様:どちらかと言うと僕はすごく楽しかったです!

現地のアイセックのメンバーの人たちと、現地の学校で先生のボランティアをして生徒と日々放課後遊びまくっていたり、ホストファミリーと他愛もない話をしたり、現地の人達と青春を送っているみたいな感じでした。だから、「社会課題を解決しに行く」っていうよりかは向こうでこの瞬間をいかに楽しめるか、みたいな風に気がついたら目的が変わってしまっていたと思います。

帰国時のフライト中は寂しくて泣いてました。泣いてしまうくらい濃密な時間を過ごせたのは現地の人がすごく暖かくて、自分に色々なものを与えてくれて、僕も逆に何か与えたい、同じ時間を過ごしたいなと思わせてくれたからだと思います。今振り返るとアイセックのインターンの魅力の一つって、そういうところにあるんじゃないのかなとも思いますね。ちなみに、僕が事務局次長になろうと決めた時は、より多くの人に僕と同じような経験をして欲しいなと考えていたからです。

高橋:それこそ、僕もガーナの首都から6時間くらい離れたところの農村で過ごしていたので、そこに住んでいる子供達や大人の人との関わりとか、1日1日のその日々の生活自体が学びに溢れていたなと思いました。

一番印象に残っているのは、現地の村の毎週末サッカーの試合ですね村中の人が応援に来てたりもして、その空気感ってすごい良いな、時間の流れも日本と違うなと感じたのと、現地で散髪をしたことは後にも先にも忘れない思い出です。このエピソードだけは絶対に笑いを取れるって言う人生の中の挑戦にもなりました笑

小西様:ゆうやの散髪エピソードは有名なんですか?笑

高橋:毎回の新歓でその動画を披露してます笑

小西様:そうなんですね笑 日本にいると、凝り固まった環境の中で多分予想の範疇内での生活を送るだけだと思うんです。

環境が変わることで外部要因的にハプニングが起きたり、自分自身も今までのキャラじゃないことに挑戦できるって言うのは海外に行くことのメリットなのかなと思いますよね。

運営を担っていく中でもどうそのような余白を設けるべきか、議題としてあげられていました。結論として環境を与えてあげて余白を作ることで自分なりの楽しさや発見を見つけてほしいという思いに落ち着いたのですが、組まれてないからこそ、想定とのギャップを感じた人も、現地でやることがないと言っていた人もいましたね。ただ、アイセックが掲げるリーダーシップやそれぞれの学びを最大化するというのは余白の中で自分を試せるかどうか、なのではないかなとゆうやの話を聞いて感じました。

高橋:当時の話だけで1時間ずっと話せそうですが、次の質問に移ろうかなと思います。パンデミックを受けての事業停止の意思決定の過程や当時のアイセックの状況について教えて頂きたいです。アイセックのメンバーとして当時ご自身が考えていたことや思ったことなども教えてください。

僕が入会した当初は年間200人くらいがアイセック・ジャパンの海外インターンシップで渡航していたので、いろんな先輩が至る所で事業に参加することの面白さについて話していたことが印象として残っていて、僕が渡航することを決めたのも、そこに起因するところが大きいです。事務局次長に就任された2020年も渡航の意思があるメンバーは沢山いましたが、コロナが蔓延してしまったので、最初に思い描いていた活動内容とのギャップがあったと思います。アイセックもグローバル全体で送り出し事業停止という状況に陥りましたが、その経緯やその中で行われた意思決定の過程について教えていただきたいです。

小西様:当時は年間200人程の若者を送り出し事業で渡航させていましたが、ピーク時は500件くらいで、そこから200件まで下がっていたので少ないと考えていました。1年間で1件も出せなかった委員会もありましたし、他の企業も進出してきたような状況の中、アイセックとして1件1件を作り込むよりは数を送り出さなければいけないなと件数に対して課題意識を持っていましたね。

イベントにての登壇の様子

2020年度は、いよいよそういう方向性に舵切りをして400件を目標にしていました。しかし、コロナが蔓延、そもそも国境が閉じてしまって、海外どころか家からの外出すら規制されてしまう状況となり、年間0件の結果となってしまいました。僕もそうですけど、メンバーとしてみんな苦しかったのではないかなと思います。

当時委員会の副委員長だったゆうやはどんな心境でしたか?

高橋:複雑な思いもありましたが、送り出し事業が若者に与える影響の大きさを実感しており、当時は200件という数字に対して、もっと一つ一つの委員会が頭を使えばより多くの人に届けられるはずとは考えていました。
もっと多くの人に届けたいという気持ちから副委員長になることを決意しました。当時広報ブランド統括というポジションで、ブランドとかマーケティング関連で、特に送り出し事業の「届ける」という側面を担いたいと考えていました。アイセック・ジャパン全体で400件、2倍拡大しましょうという当時の目標があった点に僕も共感をしていたし、一橋大学委員会はアイセック・ジャパンの中でも実績として多くの件数を回していた委員会だったので、その責任感もすごく感じていました。そんな中コロナが蔓延し、当時覚えているのは12月末くらいに夏に20人を送り出すためのプランニングをひたすらに練っていた事が全て無駄になってしまったな、というのがまず思い出されることで、自分達も当初は何をして良いかわからないというのが正直な心境でした。そもそも、アイセックの事というか生活そのものも大学もどうなるんだろうという状況でしたもんね。何も考えられていなかったなと思います。

あとは、その時に渡航していた渡航者を安全に帰国させる対応にも追われていました。あまり先行きが見えないなというところで、とにかく一旦全てが白紙になりましたね。

事務局次長を務めていた快さんの心境はどうだったんですか?

小西様:まずゆうやが言ってくれたように、そもそもコロナで完全に国境が封鎖される前に渡航してた人たちの帰国の対応をしていました。当時すごく覚えているのが、同じ事務局のメンバーと、ウガンダの国境が24時間後には完全に閉まってしまうという事象に伴って、渡航していた2-3人の方が帰国できなくなる状況を防ぐために奮闘したことです。

あとは、忘れもしない、2020年の4月に外務省から全世界に対して、不要不急の渡航が禁止されました。ニュースが入ってきたのが丁度事務局長、次長達とのミーティングをしていた最中でしたね。それまでは望む人がいるのであれば送り出してあげたいなという気持ちから送り出せる国を絞って渡航先を探していたのですが、それが0になった瞬間に本当に終わったと思いました。

こうした経緯から正直1年間ずっとやめたかったし、1年間何してんだろうなあって思ってました。後半、海外戦略を担当して"global youth dialogue"や他の新規事業で海外戦略担当として海外支部と連携を取ったり、当時の事務局長の代わりに国際会議に出席したりなど、新規事業の担当としていろんな国との交渉の統括をしていました。やることはあったし僕にできることはしていたけれど、でもやはりそれは本意ではなかったし楽しかったというよりは苦しかったです。

送り出し事業/新規事業の海外戦略担当チームの一部

それでも最後までやめなかったのは、後世に送り出し事業の価値を、渡航することの価値をしっかりと伝達しなければいけないという使命感があったからです。当時完全にオンラインに移行してもいいのではないかというような風潮もあり、それは極端に言えば、渡航しなくても成り立つ、送り出し事業の代替となる機会を探すという話でもありました。

ただ、僕は実際に渡航することへの価値を痛感していたので、送り出し事業の価値を伝え損なってしまってはいけない、そういう使命感で当時は副委員長を担っていたんです。だからこそ、今改めてアイセックの送り出し事業に参加してくれる人がまた戻ってきて価値を感じてくれているというのを聞いて、「ああ、当時の努力が報われたな」とすごく思います。結果的にはあのとき耐えてよかったなとは思いますね。

以前、事務局長・次長チームで当時の話をしたことがあるので、ぜひ読んでみてください!

高橋様:そうですよね、僕も送り出し事業の価値を伝えてその件数を増やす為に委員会の広報ブランド統括になったので、4-6月が一番苦しい期間でした。

アイセック・ジャパンとしてもこのままでは駄目だと新しい事業の可能性を模索しようという方向性が揃い始めたのが夏くらいだったと思います。
快さんにリサーチの課題を出されたことが印象に残っています。快さんも事務局でのプランニング時期だったと思うのですが、「今の若者ってどういうこと考えてるのか、海外渡航について調べて欲しい」と言われて、実はそれが僕にとっては着火剤となったんです。3日間くらい、凄まじい勢いで調べたのだけは覚えていて、知り合いとかメンバーとかに色々とヒアリングをしながら、リサーチをして4パターンくらい送り出し事業の価値やシナリオみたいなものを考えた気がします。

この問いかけでまだまだ自分達って考えられること、やれることがあると気づいたことをきっかけにモチベーションが安定してきて、自分自身も頑張ろうと思えました。また、きっと快さん含めコロナ禍当時のアイセックのメンバーが自身の活動が受け継がれるのか分からない中でも、送り出し事業の価値伝え続けてくださっていたからこそ、自分が今アイセックをできているということは改めて感謝したい部分ですし、その頑張りを引き継がなければというのは今でも思う所ですね。


最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回に続くので、ぜひご覧ください。

また、海外インターンシップについて詳しく知りたい方はこちらのサイトをご覧ください。


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