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『海がきこえる』


昨日、『海がきこえる』を観てきた感想を好き放題に綴りました。一部ネタバレかもしれないのでご注意ください。


Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下 は初めての映画館だったけれど、ほどよく狭くて静かな空間に癒された。チケットを買うとき、後ろに人が並んでいて焦って決めてしまった席なので、もう少し後ろの方が見やすかったなぁと後悔した。だけど、上映が始まってからはそんな不満もすっかり忘れて世界観に浸ることができ、素敵な72分(という時間もあまり感じなかった。現実的な時間感覚の不在?)だった。

稚拙な感想になってしまうけど、とにかく全体を通して、描写が好きだった。年代としては自分が生まれるだいぶ前のはずなのに、昔っぽいと感じるよりは、なぜか懐かしさというか、既視感のようなものがあった。フィルムカメラのような作画の雰囲気や、実際にその場にいるような親しみを感じられる高知と東京の街並みの描写、登場人物たちの服装など、作品を構成する要素のひとつひとつを好きになったので、本当に観てよかったと思う。帰りの電車内でメモアプリの「行きたいところリスト」に高知県を追加しておいた。

それから、通話中に廊下を通りがかった弟を避けてあげる動作や、東京のホテルで泣きながら抱きついてきた里伽子の肩にそっと触れるときの葛藤、里伽子が元恋人と話しているときの拓の貧乏ゆすりに現れた苛立ち、そういった些細な動作の描写が丁寧でいいな、と思った。私は文字から場面をイメージするのが大好きなので、好きな小説の映画化が決まると少し不安になるような種類の人間なのだけど、『海がきこえる』に散りばめられた「映像作品にしかできない表現」の数々に感動して、やっぱり映像もいいなと思い直した。単純だ。『海がきこえる』の原作小説は読んだことがないので、今度本屋さんで探してみようと思う。


ところで、現在の登場人物たちが大学一年生という設定のこの作品を、大学一年生の春に観られたのはちょっとした奇跡だと思う。高校時代の彼らの、真っ直ぐで純粋な恋心だとか、自分の世界にとらわれていて周りを振り回すことも顧みない若さ、そういった生々しくて眩しい感覚は、なにかとても鮮やかなものに見えた。その分、高知空港で再会した拓と松野の会話だとか、同窓会での清水さんの台詞、そして里伽子が小さく頭を下げるラストシーンは、彼らが短い間に急激に大人びたような印象があった。

この10代の終わりの時期に、一瞬にして自分の世界が(それまでの狭い世界と比べたら、の話だけど)ひらけていくような感覚を、もしかしたら多くの人が経験するのかもしれないと思う。私自身、特に去年(高校3年生)を振り返ったとき、自分の中で何度も価値観だとか思考方式の大きな変化を繰り返したような気がしてくる。具体的にどこが? と訊かれたら、すらすら答えられる自信はないけれど。

これが大人になっていくことなのか、とも思うし、でも完全な「大人」なんていないはずだから、誰だって成長過程の「子供」なのかもしれない。大人になることで、物語の展開スピードや感情の変動率が小さくなっていく傾向にあるのは確かだろうから、いろいろな歌詞や小説にあるように、大人になる=「つまらない」こと、というのも一理ある。だけど思慮深さを少しずつ手に入れていくことで世界がひろがっていくのもまた、事実だと信じたい。未熟で浅くて狭い世界にいるからこそ得られるものも、成長してだんだんと深く、ひろくなっていく世界を見渡すことで気づくものも、どちらも、その時の自分だからこそ出会えるのだろうな、と思った。


なんだか、感じたことを一気に打ち込んだだけの文章になったけれど、この作品を観て思ったのはおそらく、「瞬間」の貴重さを忘れずに生きていきたい、ということ。映画を観るときは、画面の隅々まで見逃したくない! と真剣になることでいつの間にか没頭できていることが多いけど、自分が生活している現実の世界と、私は隅々まで真剣に向き合おうとしていないかもしれないと気づいた。冷静に考えると、現実の世界こそ、一度見逃したその瞬間は決して巻き戻せないんだよね。

とてもとても好きな作画の雰囲気と、繊細な描写と、海のようにひろがっていく彼らの世界が、今の私にとってすごく印象的だった。数年後にこの作品を観たらどう感じるのか、全く想像がつかない。今この作品を観られてよかった、と心から思う。




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