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4. 道は内観にあり。ありのままの自分を受け入れ、悲痛なる叫びを認識し寄り添い、緊張の糸を解かれよ。

大切な人との心のつながりを願って。恐れが生む、淋しさや惨めさ。

働いていた頃の祖母と母は、私が認識している以上に輝きを放っていたであろう。それぞれがもつ光を自ら照らしていたであろう。家庭の中では、夫があまり家にいないことで、縁の下の力持ちでこどもを支える逞しさや根気強さがある人であったろう。人の輪の中では、可憐さと華やかさが合わさったような笑顔の花が咲き誇り、気品や気高さが姿勢に美しく表れ、快晴の空のような澄みきった清らかさと思いやりで相手を受け止め、丁寧に信頼と調和を築いていき、智慧と愛をもって手を差し伸べる人であったろう。退職するまでの長らくの間、職場で愛され敬われながら活躍できていたのは、そういう背景があってのことであろう。

実際、「出産のときに、おばあちゃんにお世話になったのよお(♡)」という声を何度もいただいてきた。地元で出逢ったはじめましての人の中に、祖父や祖母を知っているご年配の方が何名かいて、その都度である。母にしても、30年以上前の教え子やお母さんに出逢う度に、「先生ぃ〜(♡)」と声をかけてもらうようだ。誠に恐縮だが、お世話になった先生方の顔をほんの一部しか覚えていない私がおもうには、相手が覚えているということ自体が、心に残るほどに印象的だったり好きだったり助けてもらったと感じているという証のように感じる。

だが、私が記憶している二人の様は、多くの場合、そうではなかった。なぜであろうか。それは、祖母や母にとっての母親という役割をした彼女と、母という役割をした彼女を、家族の中だけで見てきたことも関係しているかもしれない。要は、他の役割を担っている彼女たちの姿は見ず知らずであったし、他の姿を認識しようという発想すらも当時は色濃くなかった。いくつもある中の一役割しか、娘や孫から関心を抱いてもらえないことも、彼女たちの淋しさを助長させてしまっていたかもしれない。今、この瞬間にも、祖母の“しゃあないんやね”や、母の“見てよお!”という諦めと願いが相混じった泣き声が心に鳴り響くほど、彼女たちの胸の痛みを受け取り、申し訳無さを感じている。ごめんね、苦しかったよね。

私の印象では、祖母と母は似ていた。親の背中を見て子が育ったからか、愛情を口にする人ではなかった祖母が母親から受けた愛された方を、祖母がそのまま真似て娘に与えたからか、明確な理由はわかりえない。二人とも、決して弱い人であったわけではなく、むしろ強かったはずであろう。だが、とある状況下において弱くなりやすい人であった。それは、家庭の中での、自分自身の存在価値に疑問を抱く状況になったときなのかもしれない。その疑問の根底にある願いは『大切な人との心のつながり』で、その願いが満たされず、シンプルに、淋しかったのではないであろうか。幼少期に母親ともっとつながりを感じていたかったのではないであろうか。子育てで忙しいときに夫ともっとつながりを感じていたかったのではないであろうか。

おとなになってからもだが、特に幼いこどもが、必要としている愛情やつながりなどを十分に注いでもらえていないように感じていた場合、心身の安心安全を感じにくいため、自己効力感や自己肯定感が低くなりやすく、また、恐れが根底から抜けにくい。溜まりに溜まった不安が沼の中で眠ったり蠢いたりして、いつの間にか足を掬われる。まわりの声に意識を向けるときも、安心よりも不安が囁く声が聞こえているのかもしれない。ほとんどの人に多かれ少なかれ当てはまるであろう。祖母に関しては直接聞いたことがないゆえにわからないことも多いが、生後間もない頃からの家庭状況の一部を聞く限りでは当てはまりそうであり、母は当てはまる。

二人とも、家族、特に母親や夫という最も頼りたい存在に対して、自身の胸の内にある想いや相手へのおねがいを適切に伝える行為は不器用であったようにおもう。今でもそうだ。遠回しでわかりにくい表現であったり、要件がつかみにくい伝え方であったり、否定疑問文で問いかけたり。大切な存在からの否定や拒絶を恐れるがゆえに、真っ直ぐに伝えられないのであろう。スポンジのように心も頭も柔軟な、幼少期、児童期、思春期、青年期のいずれにおいても“おねがいする”体験していない場合、おとなになってからはじめて実行するのがどれほどに難易度が高いかは言わずもがなである。その上で、勇気を振り絞って試みた際に、悪気や誤解の有無にかかわらず、相手から一度以上受け止めてもらえなかったとすると、大変に傷つくものだ。存在を全否定されたような屈辱や惨めさを感じる人もいるかもしれない。そうなる状況では、疑心暗鬼や遠慮がちになり、二度目のおねがいに踏み込めず、やるせなさやもどかしさで苦しむ状態となるのは想像に容易い。

受け入れられること、認めてもらうこと、協力、配慮、おもいやり、共感、親密さ、尊重、安心、安全、知ってもらう、理解してもらう、信頼、あたたかさ、誠実さ。これらは、人(自身、他者)とのつながりにおいて、人が必要としている状態である。天命としての役割(志事)柄、他者のお話に耳を傾け、寄り添う機会を多くいただくのだが、真に必要としている状態を認識している人は多くないように見受けられる。また、認識している人の中でも、どれほどに満たされているかと問うと僅かばかりといった状態の人が多い。必要な人に必要ななにかが贈られる(届く)社会を願うばかりである。

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コラム:ラベル呼びがもたらす「共依存」。ひっそりと警鐘を鳴らす。

祖母や母をはじめ、肩書きや役割などの“ラベル”ではなく、名前や可能であれば呼んでほしい呼び方で、相手を呼ぶように意識している。過去の謝罪に加え、長らく違和感と不快感を感じていたからだ。ラベル呼びには、本質的な意味を感じないだけはでなく、過度の依存状態を構築しやすい状態への危惧を感じている。

まず、全体としての“個”の一部である役割で名を呼ばれることによって、呼び手よりも“ご本人が”“自分は他の役割をもつ存在である”という状態を忘れやすくなる憂いがある。特に、社会との関わりが薄くなりがちな専業主婦に当てはまりやすいようにおもう。無常であり、人間はときに応じて強くも弱くもなる。気丈なときは気に留まらない状況であっても、弱さに打ちひしがれているときには、枝葉末節な事柄も大事となる。こういうときにこそ大所高所が必要になるが、それがむずかしいため、日頃より安居危思に努めておく大切さを感じている。次に、臆病になっている場合は特に、役割に対する執着が強くなる。そして、執着を手放すことがむずかしくなり、過度な依存状態が生じてくるというわけである。

母親に執着を示す青年男性とその母親が、お互いに依存することで、存在を承認してもらえる心地よさを求め合う状況がひとつの例であろう。しかし、渇望し合う場合だけではなく、ドメスティック・バイオレンスのような一見嫌悪し合う場合の間柄でも、共依存の高まりは生じるであろう。前者も後者も、エネルギーの奪い合いを通して、自分に意識を向けさせようとし、それに伴い、静かに疲労を重ねているはずだ。一言で表せるほど安直ではないが、大切な誰かに「自分を見てほしい」という願いが鍵だろう。この願いを他の誰かに期待するのではなく、自分自身が一心一意して「自分を見てあげる」ことで願いを叶えてあげてほしい。

執着が生まれやすい親子間やパートナー間で、共依存は生じやすい。程度の差は様々であっても、多くの夫婦間で生じているのではないだろうか。特に、片方が専業主婦(主夫)として家で働き、片方が外で働いている場合。重要な役割である心理的に家族を支えているのは片方もしくは両者であっても、経済的には自分とこどもが相手の収入で支えられている状態となる。相手に委ねざるを得ない状況では、「相手のここがいやだな、でも、生きていくためには、、」と思い悩んでいても、NOを言いにくい。

共依存から抜け出す上では、お互いに精神的に自立することが重要となる。そのためには、自覚することが先手であり、その上で、これまでや今の自分を否定せず、自分を大切にして自信を育み、臭いものに蓋をして誤魔化してきた現実と向き合い、簡単なことからでいいので依頼(おねがい)をする。和して同ぜず。さすれば、エネルギーを与え合い、真に心地よく安らかな関係を築けいける。ひとりひとりが、精神的に自立し、慈悲喜捨をもって、ご自身や他者に対して、智慧をもって、手を差し伸べられる社会となることを願って。

もうひとつ、実体験を通して気になっていることがある。役割への過度な“期待”とそれに伴う“失望”の流れに対する、適切なケアの必要性だ。こどもは親に対して過度な期待をしがちである。なぜなら、三歳児からしても小学一年生からしても、おとなはおとなであり、何でもできる完璧な人のように捉えてしまうゆえであろう。でも、実際には、おとなといえど、十分な余裕もなく、自分のことだけでも思うようにならない状態であり、得手不得手だってある。

厚生労働省の調べでは、1970年における第一子の出産平均年齢は25.6歳、1990年では27.0歳、2009年では29.7歳とある。第一子出産はいわゆる母親になる年齢だ。論語の一節に、孔子が人生を振り返った際の言葉「三十而立」がある。無論、人それぞれ異なるが、20代で精神的自立をしている人、いえ、半世紀生きている人の中でも真に精神的自立している人はどれほど存在しているであろうか。

いずれにせよ、私はこどもが小学校低学年になったらお伝えしようとおもう。「親といえどもね、おとうさんもおかあさんも30代の人であり、得意不得意があり、うれしいときもかなしいときもあり、なんでもできるわけじゃないし、いっぱいいっぱいなときもある。未だ体験していないこともたくさんあって、“母親”として子育てにおいてははじめましてなことの方がほとんど。様々な一面があるんだよ。私はね、完璧ではないんだ。そして、その不完全さ、未完成さを受け止め、赦し、愛している。あなたの望みならなんだって、できる限り一緒に叶えられるように努めたいよ。でもね、もしも、あなたががっかりしたときにはすこしだけでいいから、あなたのためにおもいだしてほしいな。どんなことでも感じたことをまずは伝えてみてほしいって心からおもっていることを。一緒に手を合わせて乗り越えていきたいって強くおもっていることを。でも、おかあさんにも苦手もあるってことを。今すぐにじゃなくていい。母親としてだけでなく、ありのままの私を観察して、知って、感じてもらえたらうれしいな。私もあなたにそうしていくね。」と。

もしかすると、お父さんお母さんなどのラベル呼びをしないことによって、両親への敬意がなくなることを懸念する人がいるかもしれない。わからなくもないが、その点における私なりの考えをご説明すると、「敬意は自分に対しても他者に対しても心の内から抱き、自然と表れるものであり」、名前で呼ぶから敬意がなくなるということにはなりにくいようにおもう。名前を呼ぶことによってなくなるのではなく、単にそもそもなかった敬意が明らかになっただけの可能性が高いのではないであろうか。自分のこどもには、心からの敬意と誠実さ、心を開いて受け止める在り方を大切にする人に育ってほしいと願って。

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苦に喘ぎ続けた身、いざ解き放たれん。 Come to be Close to True-self.

以前から明瞭であったものの、等閑視していた祖母や母への嫌悪感。長らく、無意識下にて、憂慮として私の胸の中に在る状態に気づいていながらも、機が熟しておらず、過去の傷や愚行に向き合えずにいた。内にも外にも、人は見たいものしか見ていないのであろうね。

おかげ様で、ようやく自分の弱さを認め、受け止め、慈しみ、労い、赦し、愛し続けた過程を経て、蟠りとなっていた過去に受けた傷を解像度高く観察する準備が整い、今を迎えている。自分自身と向き合い続けて七年が経つが、今は格別な異なりを感じる。開かれた心が、静かに、落ち着きを感じながら、忍耐強く、内を観ている。絡まった糸が解けていく様を、だんだんと心が緩んでいき記憶に誘いこまれていく様を、歓喜したりわくわくしたりほっとしたり解き放たれる気持ちを体感している様を、遠くから眺めている私がいる。

Past-self には、置き去りにしてきた傷が多かった。あまりにも多かった。雁字搦めになって息ができず苦しそうで、深みにはまって今にも溺れそうに助けを求め、喘いでいる。どれほどに自分自身を労ってあげられていなかったかを思い知る。無理させてきたね、ごめんね。がんばったね、よく耐えてくれたね、ありがとう。この32年間、雨の日も、風の日も、嵐が吹く日も、心身を共にし乗り越えてきた。誰よりも深い絆で結ばれているこの身に、衷心より深い感謝と敬意を込めて。もう解放されていいんだよ、旅立ちのときが来たんだね、と添えながら。

“和”への願い。ありのままの自分を受け入れる“超越”への旅。

「愛華は、自分のことよりも相手を優先するね。」小学生時代を追憶している中で、父がよく口にしていた言葉が、耳元で囁かれた。そういう傾向にはあったので納得しつつも疑問が湧いた。あれ? 本当にそうだったのかな? 糸をたぐると、ある共通点が視えてきた。家族や親戚とのお付き合いにおいて、その癖を発揮していたようである。

心から相手を想いたい気持ちが芽出しであったかと問われると、首をひねる。素直でいいこであったが、当時そこまで高尚であったとは考えにくい。家族のことならなおさらに、相手を優先させることによって得られる、逆に言うと、そうしないと得にくい“大切にしたい状態、願い”があっての、心理的な行動と考える方が筋が通る。それでは、大切にしたい状態、願いとはどのような状態であったのであろうか。

喧騒や粗暴ではなく、“和、静かな”“平和、親密さ”
不機嫌やいら立ちではなく、“穏やかさ、平穏”“交流”
無関心や打ち解けなさではなく、“あたたかさのある”“参加や協力”
神経をすり減らしたではなく、“いきいきした”“命の祝福”
哀れさやもどかしさ、打ちひしがれているではなく、“満たされた”
ピリピリいらいらではなく、“落ち着いた”“一貫性”
惨めさや妬ましさではなく、“誇らしい”“信頼”
孤立や寂しさ、怯えたではなく、“愛のある”“気楽さ、帰属”
失望や苦悩ではなく、“慈悲に満ちた”“喜び”“挑戦、超越”
もろさや無力感ではなく、“安定した”“支え、配慮”
ふさぎこむやかき乱されるではなく、“ほっとする”“気のおけなさ”
へとへとやくたくた、燃え尽き感ではなく、“リラックスした”
心配や不安ではなく、“安心した”
後悔したではなく、“解放された、信頼している”“明晰さ、刺激、自覚”
無感動や不信感のある、軽蔑したではなく、“励まされる”“共感、相互依存”
茫然自失や退屈なではなく、“生命力に溢れた、わくわくした”
途方に暮れるではなく、“歓喜している”“安心”
気難しさや防衛的、遠慮がちではなく、“心を開いた”“自己表現”
うんざりやしゃくにさわるではなく、“うれしい”“真実味、誠実さ”
どよんとしたではなく、“喜びに満ちた”“希望”
悩まされるや心が暗いではなく、“すっきりしている、晴れ晴れしている”
慌てたや居心地の悪さではなく、“ありのままを受け入れる、ゆるぎない”“うそじゃないこと”

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祖母や母が、満たされずゆえか、精気なく緊張や愁いの衣を何重にも羽織っては、重そうにしている表情や様をよく見かけた。そのようなときは、満たされない気持ちがふくらみ続け、根っこの部分で心が安定していないゆえに、「助けてえ。おねがいぃ。」といった音を奏でた悪口や両舌が口からあふれていた。理不尽さや不都合さ、満たされなさを感じると、その都度、理由や言い訳を他者に置き換えることでぎりぎり心を保っていたであろう心境。見ていても痛々しかった。苦しみのあまり、かなり深層の無意識下で行っていたために、自覚はなかったであろう。毎日とは言わずとも定期的に大声で叫んだり喚いたりして家中に響き渡っていたのに、今、母に問うても、「そうやったかなあ。そんなことないけどねえ。」と、本人はほとんどといっていいほど憶えていない。無意識での行為とは、それほどの認識の低さなのであろう。

つらかったよね、苦しかったよね、待ち望んでいたよね、希望の光を。パートナーとの心のつながりを、いや、それ以前に、自分自身との心のつながりを感じていたかったよね。満たされたかったよね、ありのままの自分もどのような状態の自分も愛したかったよね。あなた自身が、慈しんであげられますように。赦してあげられますように。そして、その後に、まわりの人を慈しんであげられますように。赦してあげられますように。

彼女たちにとっての然るべき“強くなる”旅路であるといえど、誰にとっても手を差し伸べてくれる存在は必ずといっていいほど必要である。当時の二人それぞれに対して、一要素である環境や家族の一員として手を差し伸べきれなかった力不足さには、この場をお借りして赦しを請いたい。そして、今、真のしあわせに近づいている状態を願いたい。

パートナーやまわりにいた誰かが、彼女たちの願いに気がついて寄り添ってくれていたら、彼女たちはどれほど救われたであろうね。家の外で公に対して奉仕している一時間を、変わりのいない・かけがえのないパートナーに注いでくれたら、彼女たちにとっての景色は異なっていたであろうね。とはいえ、パートナーといえども人間であり、異性ゆえに気がつきにくい特性もあれば、得手不得手もある。不完全であり、未完全であり、それが人間らしい美しさでもある。女性もではあるが、男性は特に、自分の感情を繊細に認識している人は多くないようにおもう。また、洞察力や共感力、傾聴力、配慮、繊細さのそれぞれが十分に育まれていない場合、他者の感情に寄り添うのは難易度が高いものだ。反応を繰り返すことで状況悪化することは容易にあれどもね。残念ながら、彼女たちにとっての不仕合わせは、弱さを強さに変える超越が必要なときに、背中を押してくれる・手を差し伸べてくれる存在が、まわりにいなかった状況そのものであったのかもしれない。この体験への認識もあってなおさらに、私は今、母が答えを求めようとも、安易には与えない。すこしばかり険しい道ではあれど、彼女が自ら模索できるように、背中を押すことだけしている。

道は内観にあり。悲痛なる叫びを認識し寄り添い、緊張の糸を解かれよ。

「Honey, I can be relaxed at home. Let’s enjoy being relaxed together. ♡」四年前、Boston で、ex-partner が微笑みながら伝えてくれたとき、私は意味がわからず困惑した。頭で単語としての意味は理解できるものの、体感としてはまったくわからなかったのである。なぜなら、私には家でリラックスした体験がなかったからであった。これまでずっと、家の中で緊張を感じていたのであろう。力むではなく“力を抜く”、満たされた精神状態で力が抜けている状態の軽やかさを体感したときにはじめて、これまでの緊張や力みはなんであったのであろうかと感嘆し、至福を味わった。つい一ヶ月前のことであった。中目黒にある人気カフェのテラス席にいても San Francisco の街並を歩いていてもひとりで歌ったり踊ったりし、どこにいても居心地良く過ごしていたので、家でのリラックスがわからないというのは盲点であった。

なぜ、あの頃の私は心に緊張を張り巡らせていたのであろうか。ひとつ明確なのは、心の深いところで家族とつながりを感じたいとおもい続けていたこと。「うちの家族は、愛情もあるし仲は良いけど、なんというか表面的で、心のつながりは薄い!(それが淋しい)」といった発言を、数年前の時点でも帰省の度に家族に対して向けていた。それほどに、心のつながりを重んじていたのであろう、感じたかったのであろう。

祖母や母が肩を落としながら、深層の願いが叶わないことで、表層に表れる不平不満や非難や羨望、嘆きを繰り返し口にする姿。その対象は、二人にとっての夫や娘、姉妹がほとんどであった。女たちも苦しかったに違いない。大切な人のことで思い悩むのは、社会や関係性の薄い誰かに関して悶々とするよりも苦しいはずである。なお、二人の痛々しい様を目や耳で知覚し続け、その上で慰めたり寄り添っていた私たちこどもも苦しかった。またはじまった、、と感覚が瞬時に反応し、緊張や気疲れを感じ、ピリピリしていた。私たちにとって大切で大好きな祖父や父、お世話になっていたり一緒にいるときにたのしかった、それなりに近しい親戚の顔が浮かぶのも心苦しかった。加えて。二人の心に陰った雲が一向に晴れず、希望が視えない状況、助けられなかった状況にも、心優しいこどもたちは多かれ少なかれ痛みを伴った。次第に、祖母や母の状態に、気づいてか気づかずしてか、ケアしきれない祖父や父への怒りも沸き立っていた。正直なところ、兄や妹は同状況をどのように感じていたかはわからない。が、好意的に想っていたようにはおもえない。この一年ほどですこしずつ適度な距離を取っていく中で関係性が落ち着いてきているが、母が何かを口にすれば多かれ少なかれ苛つきや諦め、呆れていた私たち三人の表情がパッと浮かぶほどには、今でも心の棘が突き刺さっている気がしている。

彼女たちや祖父、父が私たちに対してどれほど愛情表現を全身で尽くしてくれても、彼女たちから他者への言葉や反応が邪魔立てして、兄妹以外の家族・親戚全員に対する信頼や尊敬の念が厚くならず、不信感すらも募り、心のつながりを感じにくかった。その状況もまた哀しさの後押しをしていたのであろう。そして、「おばあちゃんが人のせいにしているのも、ママがお風呂で叫んでるのも、聴いていて痛い!嫌い!うるさいよお!おじいちゃんもぱぱもなんで気づかないのよお!ひとりひとりがなぜ少しずつ改めようとしないのよお!」といった、胸の内に忌々しくあるこの苦しみを受け止めてもらえる先がなかったことで一層に苦しんでいた。苦しい!苦しい!苦しい!と心が叫んでいたに違いない。そう、心が叫び続けていたのだ。いつしか、哀しみが怒りに移り変わっていた

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今、この瞬間に、自分の心の奥に根付いていた深い苦しみや怒りに気がつき、認識できたことが、寄り添えていることが、緊張や原因の糸を解く鍵となっている。もしかすると、「そんなことで悩んでいたの? 贅沢な悩みだね。」と捉える人もいるかもしれない。「両親もいて、食べるものにも困らず、何を悩ましく感じるのかな。」真剣に不思議そうな表情をした父から、近しい言葉を耳にしたときに驚きで衝撃を受けたのをおもいだした。そういった言葉が発せられる背景には、本当にわからない、があるのであろう。日本のほとんどの教育機関では、頭で考えることは教われど、感じることを教わらない。“心や身体で感じる”状態を本当にわからない(体感できない)人はとても多いとおもう。小さい頃から多少の苦はみなあるものだと我慢したり、口にしても仕方がない精進する他ないものであるとおもい、受け止めてもらえることを諦めたり強がったりしたりし続ける中で、苦しみを感じる感覚が麻痺していることにも気がつかず、満たされない感情が心の奥底で沈んでいる状態がある可能性が高い。

「あなたが、私や妹の痛みを、考えや感情の存在を、勝手に評価・判断しないで!そんな権利はない!」このように感じては、食卓を叩いて両親に泣きながら訴え、もがいていた様が頭をよぎった。誰ひとりとも、他者の感情や状態に対して評価を下すことはできない。自分自身に対してもである。自分のことすらわからないわたしたちが、他者をわかるとおもうなどとんだ驕りであろう。私は、意識上で認識できるのはせいぜい3%にも満たない程度で、残りの97%以上は無意識下ゆえに認識していない・視えていないと捉えている。唯一できることがあるとすれば、寄り添う形で手を差し伸べるのみ。それができないのであれば最低でも傷つけないことを意識してほしい。こちらが私の願いであり、在り様にもなっている。


  

お気持ちを添えていただけたこと心よりうれしく想います。あなたの胸に想いが響いていたら幸いです。