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はじまりとおわり

恋のはじまり、愛のはじまり、そしておわり。
京王線、多摩川、開発される前の調布、徒歩30分のマンション、一緒に暮らしている拾った猫。

日記のような映画にしようと思ったら脚本が書けた、とシナリオ本のあとがきで坂元裕二さんが語る。
「花束みたいな恋をした」印象的な台詞ばかりで、好きなものを並んで見つめる主人公ふたり、麦くんと絹ちゃんが愛おしい。この映像をずっと長回しで見ていたい。


--------- 以下、ネタバレを含みます ---------


同棲は結婚なんてゴールに見据えなくてもすばらしいし、生活はたやすく壊れる。人は変わろうと思わないうちに毎日の些細な選択で変わってしまう生き物だ。わたしが言葉にこまかいのは、変わりたくない部分を変えないためかもしれない。恋人がわたしの何気なく使っていた言葉を指摘した夜を思い出す。使う言葉って大事なんだよ、って言われたとき、私もそう思っているよ、ってなんだかうれしかった。反対のふたりだと思っていても、似た部分が見つかると気持ちがほわっと温かくなる。

劇中で「じゃあだったら行きたくないよ、じゃあの数が多いんだよ最近」と言い合いになる絹。「俺ももう感じないかもしれない」「息抜きに読めばいいじゃん」「息抜きにならないんだよ、頭に入んない。パズドラしかやる気しない」仕事に追われてぼんやりと前は好きだったものを変わらず好きでいられる絹をうらやましく思う麦。

好きって理由が、一緒にいる理由が、何か言葉で明確に”これだ”と言い表せないものである以上、嫌いになる理由も、離れる理由も、ことばにできないのかもしれない。何度も喧嘩して、それらは紙一重だと痛みを伴う実体験から知っている。

じゃあ、終わりってなんだろうね。
「喧嘩にもならないんだよね」「感情が湧かないの」友人にそれぞれ別れる決意を告げるふたりは、そのままでも家族になればまた違う形で一緒に生きられたんだろうか。たぶん、恋の終わりは、正の感情も負の感情も、なんにも湧かなくなることかもしれない。大事だったはずの人や、その人が大事にしているものに対して、無関心になること。忙しさとか、仕事、お金を言い訳に、感情を動かすことが面倒だな、と諦めてしまうこと。そして昔の思い出ばかりを取り出して、眺めること。

昔の友人と久しぶりに会うと、過去の話しかできないことがある。これからの話、今の話が聞きたいけれど、過去の思い出だけを取り出してグラスを空ける。その友人と、もう一度会うことは殆どない。過去を生きている人とは、一緒に進めない。それと少し似ている。

4年付き合っても、知らないことってあるんだな、と絹が思うシーンがある。わたしは、好きな人の知らないところを、たくさん知りたい、見つけたいと思う派で、だから長く付き合っている人でも(恋人、友人、上司関係なく)意外な一面を知ることができるとすごく嬉しい。
知ることができてうれしい、と思うくらいには情が湧いているふたりの別れ話を切り出すシーンは、別れるしかないとわかっていても切なかった。

恋愛はタイミングがすべてで、ここまでぴったりと似た者同士のふたりのような恋愛に過去憧れていた(現実でそれが叶うことはなかったけれど)。でも大人になってしまった今は、違うふたりだから埋め合えるものが、渡し合える言葉が、あるのだろう。だからこそ、より遠く、儚くも美しく感じる。

丁寧に、お互いの気持ちを日記のように、やさしく切り取った物語。
わたしのいつかの日々も、数年後に切り取ってみたら、こんなふうに輝いていたらいいな。

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