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やりたいことをみつけるためには〈情けない•無力な自分が出発点だった話〉

はじめに「やりたいことを見つけるためには?」

冒頭から結論を出してしまうと…

安心あんぜんを感じて、そのままの自分で居ていいってことが体感できたら
あとは自分で自分のやりたいことをみつけて進んでいける

みんな、知りたいし学びたい、よりよく生きたいって気持ちが根底にあるんだなって

見聞きしてなんとなく理解していたことが、日々を重ねるごとに実感できるようになってきていて

せっかくだからここまでの道のりや、まだ過程にいる今を残しておこうという記録です


約2年前、息子が学校へ行けなくなり、子どもの対応や自分の仕事の進め方までも右往左往していた頃

どちらも、人に相談したり学んだりして上手くいくやり方を探そうとしたけど、思うようには行かず。
それでも、別のやり方ならどうか?努力すればうまくいくのでは?と、気持ちのしんどさは脇に置いて(というか、気づいてすらいなかった?)ただただ一生懸命だった。

でもあるとき、プツンと糸が切れたように子どもたちの前ではじめて、怒鳴って怒り、その嫌悪感・不甲斐なさから子どものようにわんわん泣いた。

子どもの前で怒鳴ってはいけない、泣いてはいけない、と勝手に思い込んでいた。
弱い自分を子どもたちに晒すって、恥ずかしさ、情けなさ、無力感が先に立つ。それって、私にはとても怖かった。

たけど、実際は違った。
子どもたちの心はそんな思い込みをゆうに越えて、もっともっと大きくて、大人なのにとか、ママなのに、とかそんな概念は関係なしなのだとわかった。
その偉大さや優しさを知ってまた泣けた。
子どもとか大人とか関係なく弱さがあっても大丈夫。そのままで居て大丈夫。
それを教えてもらった大切な経験。

(そもそも、怒鳴る・泣く、が “弱い” とか “弱い=ダメ” っていう考え方も今となっては違うかなーって感覚に変化している。これはまた別で書きたい)

そこから自分の心に目を向けるようになって
向き合うようになって、
そのうちにそのままで居て大丈夫っていう体感がさらに重なっていって、
そうしたら家の中が私にとって安心あんぜんの場所に変わっていった。

本当にしんどかったときは、少しでも家の外に逃れたくて、でも息子が私と離れることへの不安が強い時期とも重なって。スーパーの買い物すら思うように外出できず、その不自由さはものすごいフラストレーションだった。

けど、実際の不自由さとは別なところで心の自由を感じられるようになって、その変化は私にとってはものすごく大きなことだったなと思う。

子どもたちと気持ちをぶつけ合う時間、部屋に篭って動けずに何もせずに過ごす時間、家族にかまえずに仕事に没頭する時間、

どんな時間を過ごしても、
またやってるなーとかいつもそうだよね、とかたぶん呆れられながら、時に不満を言われながらも、それでも好いてくれて一緒にいてくれる家族に、そのままで居て大丈夫、と安心あんぜんを与えてもらって

どんな自分でも大丈夫という土台ができていっているのがわかる。(本当に感謝!)

それから、やってみたいことが湧いてくるようになって、そこにやってみよう!と思えるようにもなって、いまも少しずつじわじわと自分がアップデートされている感覚。なんとも言えない不思議な感覚。

また書ける時に。続きます。

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