日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その3

 前回は平治の乱についてまとめたが、平治の乱の原因とはなんだのか?

 最大の原因を探っていけば、信西と信頼の対立を収められず、政治的な主導権を持てなかった後白河法皇の責任に帰する。

 もっとも、二条天皇のつなぎで天皇になっただけに過ぎない上に、政治家としての実務経験もなければ、政治家としてのキャリアも積んでいなかった後白河法皇にそこまでの責任を持たせるのは酷にも思える。

 だが、信頼のように、後白河法皇の寵愛を受けて出世したにも関わらず、最終的に後白河法皇を幽閉してしまった。

 寵愛を受けた人物に裏切られたことから、後白河法皇は彼を謀反人として斬首した。

 だが、自分の目的と欲望の為ならば、受けた恩も愛情も忘れて私利私欲に走るような人物を寵愛したのは、後白河法皇の人を見る目がないことを証明する事例になった。

 この後、後白河法皇は自分が寵愛する人物であれば、任せた仕事を全うできなくても、任せてしまうお気に入り人事をやらかすのである。

 さて、平治の乱の後本当の意味での勝利者になったのは実は平清盛ではない。

 彼は勝利者であることは間違いないが、あくまで勝利者の陣営の一人に過ぎなかった。

 この平治の乱にて、後白河法皇の院政派の中心人物であった信西と藤原信頼は死亡した。

 それは、後白河院政の終焉を意味していた。特に信西というキーパーソンを失い、信頼という寵愛する臣下に幽閉された後白河法皇は政治力を完全に失ったのである。

 つまり、平治の乱での最大の勝利者は親政を望んていた二条天皇であった。

 二条天皇はこれで心置きなく親政を行えるようになったのだが、ここで二条天皇と後白河法皇との関係について改めて解説する。

 この二人の親子は、結論から言うと、非常に冷淡であり不仲であった。

 二条天皇は生まれてすぐ生母を無くし、美福門院の養子となった。この時はまだ近衛天皇が存命であったので、彼自身は即位の道は閉ざされていたのだが、彼は父である後白河とは違い、幼いころから英明な人物であった。

 何しろ、九歳の頃から仏典をよく読みこなし「ちゑふかくおはしましけり」と評判になるほどである。

 今鏡には「末の世の賢王におはします」とまで評されており、愚昧、即位の器に非ずとバカ息子扱いされた後白河法皇とは全く正反対であり、対照的な人物であった。

 何より彼には美福門院という、この時代きっての女傑であり、頭が切れる女性の元で英才教育を受けていた。

 美福門院が近衛天皇の代わりに彼を選んだのは、何も近衛天皇の単なるスペアなどではなく、この英明さを高く評価していたかもしれない。

 美福門院は彼を即位させるために、信西らと保元の乱に挑んで勝利した。そして、勝利した後は、彼を支えるために盛大にバックアップした。

 まず、美福門院は自分の従兄弟である藤原伊通を二条天皇の側近とした。

 前回、伊通は平治の乱の際に、三条殿を焼き払った信頼に痛烈な皮肉を口にした気骨ある人物として紹介した。

 そして、彼は『大槐秘抄』を著して二条天皇に献上し、その手腕を評価した二条天皇から重用されている学識ある政治家でもあった。

 そんな人物を英明だが若い二条天皇を支えようとさせた美福門院に力の入れようがよくわかる。

 そして、平治の乱にて二条天皇を救出するべく信頼陣営の分裂工作を行った三条公教もまた、美福門院の派閥であった。

 彼は非常に勤勉であり、鳥羽法皇からも高い評価を受けている人物である。

 そして、二条天皇には平清盛というこの時代最大勢力を誇る武士が味方であった。

 二条天皇は太皇太后・藤原多子を入内させた。彼女はもともと近衛天皇の皇后だったのだが、二条天皇は彼女を再び皇后としたのであった。

 こうした形で、二条天皇は近衛派をも取り込み、心置きなく親政を行うつもりであった。

 だが、最大の後見人だった美福門院が平治の乱の後に病死した。

 これは同時に後白河にとっての目の上のたん瘤ともいうべき存在がキレイさっぱり消えてしまったことも意味していた。

 もともと、後白河法皇は能力はともかく、自分でアレコレと政治をやりたい側の人間であった。 

 そのため、この親子は再び親政と院政で争いを始めた。

 二条天皇は父である後白河を全く尊重していない。自分のおまけで天皇になっただけに過ぎない上に、祖父である鳥羽上皇からは「即位の器に非ず」とまで評された無能な人物である。

 しかも、寵愛していた信頼という飼い犬に手を噛まれ、平治の乱という大事件を引き起こしたのだから、なおさら嫌っていた。

 そして後白河にしても、いくら英明で本来なるべくしてなったとはいえ、自分の子供な上に、二条天皇の後見人であった美福門院は信西と共に「仏と仏の評定」と言うほど彼の親政を望み、後白河を軽んじていた。

 後白河法皇は基本的に無茶苦茶プライドが高く、それは正論である諫言であっても嫌うのである。

 そして、自分に恥をかかせた相手であれば、それがかつての寵愛した臣下であっても斬首するのである。

 こうしてこの親子の争いはまさに骨肉相食む争いと化していく。

 平家物語ではこの対立を「上下おそれをののいてやすい心なし、ただ深淵にのぞむで薄氷をふむに同じ」と評しており、この対立がかなり深刻な状態になっていったのが分かる。

 そして、後白河上皇と平滋子の間に生まれた皇子、後の高倉天皇を皇太子にしようとする陰謀が発覚した。

 二条天皇は保元の乱の再来を恐れ、院近臣の平時忠・平教盛・藤原成親・坊門信隆を解官した。

 そして、彼は自らが頼りとする武士、平清盛に警護させた。

 さらに彼は美福門院の皇女・暲子内親王に八条院の院号を与えて准母とし、藤原忠通の養女・藤原育子を中宮として、関白・近衛基実とも連携して摂関家も自らの下に取り込んだのである。

 自らを呪詛した平時忠・源資賢を配流するなど、美福門院に育てられた彼は権謀術数を遺憾なく発揮して親政を行うための政治基盤を固めた。

 これには、文を担当する藤原伊通の力もあったと思われるが、美福門院による教育は間違いなく、見事に成功していたのである。

 本来、院政というのは天皇の父親であることを理由に政治を行うのだが、そのシステムは非常に属人的なものであり、幼い天皇では頼りないから父親が行うという名目で行う代物である。

 白河法皇はサイコロの目、鴨川の水、延暦寺以外は思い通りになるとして権勢を振るい、その息子である鳥羽上皇もまた、崇徳天皇から近衛天皇を即位させて治天の君の地位を維持し続けた。

 だが、それはあくまで上皇側に主導権があれば成立するのであって、天皇側に主導権があれば、治天の君は上皇ではなく天皇のままになるのである。

 私が後白河法皇を高く評価しないのは、彼は息子である二条天皇に対して治天の君として全く君臨できていないところにある。

 二条天皇は後白河法皇よりも政治家として遥かに有能であった。だからこそ、院政が続いた時代の中で彼は親政を行うことが出来た。

 そして、彼は自分の権力基盤がどこにあるのかをきちんと理解していた。全ては養母であった美福門院の縁が彼を天皇にした原動力である。

 その派閥を二条天皇は決して蔑ろにすることなく、むしろ強化して美福門院派をそのまま二条派にすることにも成功した。

 しかし、周囲の人々はこの親子関係に対して思うところがあったのか、「孝道には大に背けり」という世評がある。

 儒教では忠よりも孝を優先するが、英明で賢王であった二条天皇は、世間からは親不孝者として見られていたのであった。

 確かに、二条天皇は父である後白河を軽んじていた。だがあえて弁護すると彼は父親を軽んじてはいたが、警戒はしていたのである。

 これは後白河という人物よりも、院政という仕組みに対してという方が正確かもしれない。

 二条天皇によって院政を停止させられた後白河法皇は仏教にのめりこみ、蓮華王院、三十三間堂を造営した。

 この時、後白河法皇は二条天皇の行幸と寺司への功労の賞を望んだが、二条天皇はこれを拒み、後白河法皇は恨みを抱いたという。

 せっかくの慶事であり、後白河法皇はめでたいから頼んだにという思いがあったのだろうが、二条天皇は全く嬉しくもめでたくもなかった。

 蓮華王院がどうこうというよりも、蓮華王院が造営するにあたって、荘園や所領が寄進されたのである。

 この時の寄進者には二条天皇の忠実なる部下だった平清盛もいた。平清盛は保元の乱の後と同じく、二条天皇にはしっかりと仕えながらも後白河法皇にも荘園を寄進し関係を持っていたのである。

 そして、蓮華王院こと三十三間堂は、そもそも平清盛が後白河法皇に命じられて作った寺院であった。

 これは親政を行いたい二条天皇からみれば、院政の為の財源が出来たのと同じことを意味し、全くめでたくないことであった。

 こういう行動が二条天皇を「孝道には大に背けり」と評することになったと言えるが、個人的には「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」という言葉で反論し、擁護したい。

 そして、鳶が鷹を生んだこの関係は、突如終わりを迎えることになった。

 二条天皇は若干23で崩御したからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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