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人生の失敗を味わい尽くしてたどりつく場所

失敗って何だろう。希望していた未来にたどり着けず、壁にぶつかること? 思っていたような結果を得られず、しくじること? 理想の自分と違う現実に恥をかくこと?

人生の中でたくさん恥ずかしい思いをしてきた。生きているのが嫌になったことだって、一度や二度じゃない。

それを失敗と呼ぶか、経験と捉えるか。それもすべては自分次第。

とにかく、恥さらし覚悟で、自分のいろんな失敗を振り返り、味わい尽くしたら、どんな場所へたどりつけるのか。(どんだけ逆境好きなんだという突っ込みはやり過ごしつつ)ちょっと試してみたい。


自己顕示欲の塊!? な小中学生時代

2人兄弟の長女。何となく大人の言うことを聞いていたらうまくいく。親が喜んでくれる。そんなんで、優等生を生きていた小中学生時代。

でも自分の中ではちっとも「優等生」じゃなかった。

女の子なのに字は汚い。(「女だから字がきれいじゃなきゃ」という感覚も相当なバイアス 汗)みんなが習字教室に通っているのが羨ましい。→これは5年生で一念発起して、上手な人の字を真似して、カクカクの字からちょっと克服。(大人になって「真面目すぎなくてもいいや」と脱力したら、またきれいじゃなくなった 苦笑)

小学校、中学校と生徒会長を務める。ついて回るのが朝礼や行事の挨拶。とにかく間違える。原稿を考えるけど、暗記しようとしているから、緊張で覚えたものはすべて吹っ飛ぶ。そして黙り込む…。なんてスピーチが下手だったんだろう、融通の利かない真面目ちゃんだったんだろう、と今では、当時あそこまで頑張った自分をヨシヨシしたくなる気分。

今、私が小中学校に行くと、代表生徒の子はすらすらと上手に挨拶してくれる。そう、自分の気持ちに素直に、ただ感謝のことばや感想を伝えればよかった。目的をそもそもはき違えていた当時の私。本当に、当時の私に教えてあげたかった・・・けど、当時の私がいるから、今の私がここまで脱力できるようになったともいえる。あれだけ真面目に頑張っていたんだもの、今ちょっとくらい道を踏み外そうが、うまくいかないことがあろうが、だいぶ図太く、しぶとく、たくましくなったよ~。ありがとう、と伝えたい気分。

「私を見て見て!」「私すごいでしょ」という自己顕示欲の塊。当然、同世代の子たちから見れば「うざい」存在。中学生時代はくっついたり離れたりな友人関係がしんどかった。嫌味も表裏で言われていた。そりゃしょうがないよね、あんな私。あれも私。そういう私だったんだもの。


欲張りすぎて何を残したやら…な学生時代

高校ではテニス部の部長をしながら、中学時代にかかわった活動を続け、しかし両立はしんどい。大学に進学しても、テニスサークルと、障害児と遊ぶサークルと、課外活動・・・勉強にも全然身が入らない。

今なら「欲張りすぎでしょ、私」と思う。しかし、今の生き方もそんなに当時と変わっていない気もする。とにかくやりたいことたくさん、それで中身がなかなか伴わない。みんな苦笑いで許してくれるからだいぶ甘えている。

あのときに私にかかわってくれたみんな・・・ごめん。ありがとう。本当にわがままな私。自分の欲望に忠実と言うか…。やりたいことは全部やってみたい。取捨選択が難しい。優先順位をもっと付けられたら、誠実に向き合えただろうに。やりたいこと、全部やらせてもらって感謝しています。

広く、浅くな付き合いは今も続いている。でもだいぶ方向性が定まってきた。40直前にしてようやく。どれだけモラトリアムで過ごしてきたんだか。自分の子のことは言えないな…。

でも、やってみなけりゃわからない。やったからこそ実感できる。ぶつかって、なかなか理解されなくて、右往左往して、ジタバタして、少しずつ見えてきて…そんなとても飽きっぽいけど、集中しだしたらここ一番でフットワークの軽さやパワー&エナジーを発揮する「自分」を丸ごと体現するような人生を今も歩んでいる。


場当たり的な生き方からの変化

ずっとその場しのぎで生きられればいいと思っていた。その場がうまくいけば、後はどうとでも都合は付けられると。

その癖は今も抜けないけれど、でも人生で二度ともうないであろう、大きな、大きな失敗をして、これ以上ないくらい痛い思いをして、家族から教わった。

人生には外してはいけない肝があること。最後は自分に誠実に生きること。自分らしく生きることはわがままを振りまくことではなく、家族のためにも、自分の奥底に眠る真の想いと正面から向き合うことの大切さを。

その場、その場を乗り越える生き方から、大きなゴールを見つめて、そこに向かって想定し、備え、積み重ねていく生き方へ。

本当に悔いても過去の出来事は変わらない。変えられない。あの時の自分、何やっているんだって、無理やりに腕を引っ張ってでも、ビンタしてでも、あるべき方向へ引っ張ってこれたらよかった。でも、今の私に、それはできない。あれだけの失敗を当時の私はがっつりやるしかなかった。そうでもしなきゃ気づけなかったことがたくさんあった。

今の私にできること――それは、自分の中での意味づけを変えること。失敗したことの出来事は変えられないけれど、その出来事がもたらした意味、それを味わい尽くして、何度でも捉え直す。感じて、考える。

それが少しずつ他人の心情や評価を動かす可能性がある。あくまで可能性で、必ずしもそうできるとは言い切れないけれど。自分の中での受け止め方が変わり、自分が自分を本当の意味で大切にできれば、ちょっとずつ相手との関係性が変わっていく。それは自然と、意図的でなく、でも潜在的には意図的な意味を含むかもしれないが、そっとひっそり、いずれ結果は訪れる。

その季節だから見られる風景があるし、季節は巡る。同じように見えて毎年同じじゃない。去年から今年、2年前から2年後、5年前から5年後への成長。子どもは顕著に。大人や自然はひっそり。そんなことを教えてくれた家族たち。自分の映し鏡。私が私自身を大切にできているか。自分に誠実であるか。いつも問いかけてくれる。家族のことばに耳を傾けられているか。見守っていられているか。大切じゃない他のことに気を取られていないかと。


子どもの保育園で知った、柚子 梨太郎さん作詞作曲の「きっとできる


失敗を恐れたら何にも始まらない ためして真似をしてはじめの一歩

きっときっとできる できる 

明るく歌えば 楽しくなる きっとできる 元気よく 明日も はい!

早起きも 満点も 忘れ物減らすことも あの子と仲直りすることも

きっときっとできる できる

明るく歌えば 楽しくなる きっとできる 元気よく 明日も はい!

僕たちができること 寄せ合い結び合い どんな人もみんな 活かしあえる

きっときっとできる できる

明るく歌えば 楽しくなる きっとできる 元気よく 明日も はい!

ちっぽけな夢もいい ばかでっかい夢もいい 夢が世界中を友達にする

きっときっとできる できる

明るく歌えば 楽しくなる きっとできる 元気よく 明日も はい!


「失敗は成功のもとだよね」と5歳の三男も教えてくれた。その彼は今、自転車練習が楽しくて楽しくて仕方なかった毎日から、昨日はその余裕があだとなったか、壁に2回、ぶつかって「もういい!乗らない!」と拗ねていた。

失敗はしてもいい。失敗を糧にできればいい。でも同じ失敗を何回もしてしまうことも誰だってある。抜け出せなくてもがく経験もする。

それでも――

失敗は自分の大切な道筋。人は気づくことができる、経験から学ぶことができる、意味合いを捉え直し、自分のものとすることができるから。

これからも痛い失敗をたくさんするんだろうな、とそんな自分に苦笑いしつつ、でも愛すべき自分。そして家族。仲間。みんなと生きていく。私らしく。いつも精いっぱいに。

安心して産み育てやすい社会を作るため、また社会全体で子育てを支援する仕組みを作るため、サポートいただけると嬉しいです。いただいたサポートは、あいのちの活動で使わせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。