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ファンタジスタの宴【後編】心の奥の混沌を掬い出す言葉

前回の記事にて、2002年に高円寺の無力無善寺で行われたポエトリーリーディングイベント『言霊ナイフ』の観覧にお邪魔した時の話を書きました。

今回は、そのイベントで知って好きになった、詩人のミキさんについて語りたいと思います。

ミキさん(馬野ミキさん)は、2ちゃんねる発の詩の朗読会主催をきっかけに月刊誌『詩学』にてコラムを掲載、「はみだしっ子たちの朗読会」の主催や、「鳥取砂丘の中心で詩を叫ぶ」を『詩学』の寺西幹仁さんと共催、著書に『子供の晩年』『下敷きで光を』、2005年SSWS(シンジュク・スポークン・ワーズ・スラム)第二回グランドチャンピオン、ウエノ・ポエトリカン・ジャム3(UPJ3)実行委員会代表として詩のイベントとしては異例の1400名を動員、

…などなど、色々とミキさんについて詳しく調べていくうちに、造詣の浅い私が語るよりも、もっと素晴らしいnote記事を見つけました。

ここで少し話が逸れますが、その昔、「私は相手を見ただけでその人の考えていることが分かる」と豪語している人が居ました。

確かに『サトラレ』という漫画もありますが、それはあくまでも作品の便宜上においてその人の思考が分かりやすく文章化されているだけで、実際の人間の脳内イメージは、言語化も映像化も到底出来るものではないと思っています。自分自身の思考さえアウトプットの直前までは混沌としているのに、ましてや他人の考えが分かるなどと豪語するのは、分かった気でいる当人の思い込みでしかありません。

唐突とは知りながらこの話を出したのは、先日拝見したミキさんのつぶやきに、ひとつ思うところがあったからです。

時に短い一言が人の核心を突く理由は、先の例で出したように、思考が文章化される前の「散らかった」状態、まだ整理されていない脳内イメージに限りなく近い場所から言葉が抽出されているからではないかと思ったのです。

自由詩の世界で多くの詩作家さんが「韻文」ではなく「散文」を主体とするのも、より混沌に近く、読み手の核心に迫る作品を紡ぎ出す醍醐味があるからなのかも知れません。

もちろん本来の意味の「散文」とは、韻律にとらわれない文章のことですが、「散っている」状態の意識の深層からそっと言葉を掬い出すイメージを当てはめてみた時に、私の中でとても腑に落ちる感覚があり、何やら突拍子もないことを語ってみた次第です。

詩の朗読、ポエトリーリーディングは、声の抑揚を多く使った朗読スタイルも魅力のひとつですが、肝心の言葉を伝える上で、あまり適切とは言えない仰々しいパフォーマンスに陥りがちな方がいるのも事実です。その中で『言霊ナイフ』での切れのある言葉のセンスで勝負するミキさんの朗読は、正攻法が好きな私にとっては一番心を掴まれるスタイルでした。

当時、ミキさんのテキストサイトに載っていた詩の一文で、「君の人生を他人に証明させるな」という言葉が今もお気に入りです。こうして発信する場所を頂けていることに改めて感謝して、今後も自分の想いを余すことなく綴って行こうと思います。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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