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命はどこに行く

今日は小さな命に触れた事による、学びと気づきと、自分への戒めの気持ちも込めて。

先日、我が家の猫たちに連れ去られてきた1匹のアオジの雛のお話です。
早朝我が家の猫たちが下でどったんばったんやっているのでいったいなんなのだ、と下に降りて行ってみると1匹の鳥の雛が隅っこでなおも威嚇して怒った顔で縮こまっていました。捕獲して外にすぐ離したのですが降りしきる雨の中地面から一歩も動こうとしません。

少し弱っているのだと思い、とりあえず一時保護をすることに。
(どちらにせよ今外に離してもまた猫が捕まえて持ってくると思ってのこと)鳥の体温は大体40度を超えているので、まず保温が大事です。
特に雛は羽もないので保温ができずすぐに冷えて死んでしまいます。

箱にタオルとペットボトルにお湯を入れて簡易ヒーターをつけ、少しすると元気に跳ね回るように。ヒーターの暑さにより失われやすい水分を練り餌さと共に与えて(アオジは雑食なのでパンをみずに浸して水分ととりあえず栄養補給を)

お昼頃にはすっかり元気になって勝手に箱からでて部屋中ぴょこぴょこと飛び回るほどに。安心して外に離せると思い外に連れ出すもやはり飛べない。
我が家の人たちはみんなこれは大人の鳥だという。でもよくよくみるとクチバシはまだ大きく雛であることがわかったし、木に泊まらせてもとまり木ができない。多分巣にいたところを攫われたようだ。まだ尾羽もないから飛ぶ練習前の雛でした。

手に載せ裏庭の原っぱを歩き、この雛が反応するところに連れて行こうと思いました。アオジは草陰や低い木に巣を作るようなので多分母親鳥が気が付いて迎えにくるだろうと思い、とりあえず小鳥の好きなように飛び立たせました。

しばらくたって戻ってみるとまだそのひなは地面を雨の降りしきる中、目を閉じ一歩も動きません。近寄ってみると大きな口を開けて餌をねだってきました。私はあなたの母親鳥ではないんだよ。小鳥の体は震えて体温が再び下がっている。とりあえず手を擦り両手で包んであげると少し震えも収まり落ち着いた様子。

このまま自然に返すのが一番だったのかも知れません。
でも、できずにまた連れて帰ってきてしまいました。今思えば慢心です。
私は大した鳥の知識もないのに野生動物を救えるとでも思ったのでしょうか。

結果から言いますとこの小さな雛鳥は今朝ケージの中で息絶えていました。
小さく目を閉じ隅っこで。

とりあえず大きく羽も生えそろってはいるものの、まだ雛なので3時間に一度の食事、練り餌さでの水分補給もちゃんと行った。フンもしっかり出ている。体温もしっかり上がってきている。順調そうに見えた。明日の朝にはもう一度巣を見つけてあげるか、外に返す準備をしようと思って子供の寝かしつけをして、うっかり私は子供と寝てしまったのです。
夜の冷えの為に暖房の横にケージをおいてあげようと思っていたのに、それに気が付いたのは夜中の2時。起きた時にはもうすでに遅く、しんでしまっていました。

私はわかっていたつもりでわかっていなかったし、きっと外に放っておいても寒さで死んだでしょう。でも自分がうっかり寝てしまったからと思うと許せなくて苦しくその後もなんども悪夢をみて、今朝。

命はどこに消えてしまったんだろう。
昨日の夕方にはすっかり元気になって私を怖がらず人の足に登ったり、人の手の中で暖かそうに目を瞑ったり、あんなに元気だった姿が今朝にはどこにもない。死んでしまった鳥の目はもう開かない。

こんなに野生の命はか細い。私は何度も怪我したとりや雛を保護したことがある。でも毎回毎回、死んでしまう。知識が足らないのに保護するから。
でもわかっているのに、保護してしまう。

そして毎度毎度、悲しい気持ちになる。
これはエゴだと言うのだと思う。でもそのたびに小学生の頃を思い出す。

その時うさぎ小屋当番で、生まれたての瀕死のなぜか血だらけの毛も生えていないうさぎの子供がいました。当時8、9歳くらいどうしたらいいかわからずも放っておけずハンカチに包んでいろんな人にどうしたらいいか聞き回り連れ歩きました。戻しなさい、いいから戻しなさいと先生たちに言われそのまま苦しい気持ちでうさぎ小屋に戻したら、親ウサギは小さな傷だらけの命をそのまま埃か何かのように無視。その様子に苦しく涙した記憶を思い出します。多分むやみに人が触るからその匂いがついて、放棄されていた赤ちゃんだったようです。手元には血だらけのハンカチだけが残り、幼いながらにも「私は助けるべきじゃなかったのか、この気持ちはいけないことなのか」と思ったことを記憶しています。

それから20年たった今も、全く同じことを思います。
小さな命を救えると思うのは慢心だ。助けたいと言うエゴなのだと言うのはわかっていてもなお、無視をできない。

自然は厳しい。厳しい中でも生きる。生命の競争、本能のために野生動物は生きる。いつも私はその厳しさを肌に感じる。喜びは何だろう。生きる目的に悩んだりはしないんだろう。きっと鬱病になる暇もないんだろう。

だから今日も空を立派に飛ぶ鳥たちがとても美しい。
野生の命は懸命に輝いて見える。

生命活動を終えた体には何が残っているんだろう。
命はどこに向かうんだろう。

それは懸命に諦めず母親鳥を探し大きく口を開けて餌をねだってくれたアオジの雛に少し教えてもらえた気がします。
命はあるだけでも美しい。失われた命は戻ってこない。
だけど、その命は大きなまた地球の命の渦に戻っていく。

埋めた鳥の体はやがて虫たちや微生物の栄養になる。木の根元だったから木の栄養にもなる。そしてその木はまた鳥を育む巣に成る。命は消えるのではなくまた命の輪っかに戻っていくんだと教えてもらいました。

だから自然もまた美しく、愛おしいものだと。
小さなアオジの雛よ、私に素敵なことをおしえてくれてありがとう。
大事な人の教えで、どんなに悲しい時でも一筋の希望を、そしてどんなことにでも学びはあると。その言葉に救われここにnoteとしてまとめることで自分の気持ちを落ちるかせる為にもこんなに長々と綴ってしまいました。


私は人だから、エゴも抱えているし他の生き物の死にも涙する。
自然の厳しさに泣いたりもする。そして、どんなことにも意味を見出そうとする。それもまた、人間の自然な一部なのだと思い。

大きな大きな自然を、大事に慈しみたいと思いました。

長々とした文章でしたが最後まで読んでくださりありがとうございました。
またnoteでお会いしましょう。





いつもお読みいただきありがとうございます。