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辛島さんは、なぜ「フリースタイルの僧侶」であり続けるのか

仏教をまじめに知りたい、仏教を人生に取り入れてみたいと思い立った方に24時間門戸を開いているオンライン寺院「エア寺」。

エア寺では今後、仏教実践者へのインタビュー連載を予定しています。その第一弾として、エア寺のコアメンバーでフリースタイルの僧侶という肩書きを持つ辛島正英氏に、どのような考えでその立ち位置にいるのかを話していただきました。

祖父と父の背中を見て、迷いなく僧侶に

私の祖父は60歳手前で得度して僧侶になり、その3年後、高校を卒業した父親も祖父を継いで僧侶になっています。私は2人の姿に憧れ、小学校のときにはすでに「お坊さんになりたい」と思っていました。

お坊さんが何をする人かを理解していたわけではありません。それでも祖父や父親が人前で話をするときの真剣な姿が、とにかく格好よかった。

高校卒業後、大分県を出て、京都の真言宗のお寺で出家します。迷いなどはまったくありませんでした。

出家後は大峯山の麓にある龍泉寺に約5年務め、24歳で運命学を学ぶために上京します。手相、人相、姓名判断、家相…つまり占いです。

地方の寺院にいると、「子どもの名前を付けてくれ」「人生相談にのってほしい」などと頼まれる機会が多くあります。そのような相談を受けていた祖父の姿も覚えており、いずれは勉強するものだ…と思っていました。

「フリースタイル」の意味はひとつではない

現在は、どこかのお寺に属しているわけではありません。フリーな立場で、お寺さんのお手伝いに行ったり、悩みごとをお聞きしたりしています。産業カウンセラー主催の瞑想体験会や、結婚相談所からのご依頼なども受けてきました。

立場を分かりやすくするため「フリースタイル」と名乗っていますが、お寺の住職がフリーではないかというと、そうではありません。フリースタイルには「ひとつのお寺に属さない」と「自由に活動する」の2つの意味があります。

私は両方を意識していますが、お寺に属していてもフリーな活動をされている方もいらっしゃいます。

「お寺に属さない」メリットは、何より行動制限がないことです。お寺にはいつ来客があるか分かりませんし、急なご相談や御朱印対応で自由に出かけられません。

しかし私は、お坊さんこそできるだけ外に出る方がよいと考えています。お寺にいるばかりでは市井の悩みごとから遠ざかってしまうからです。ただ、私もいつかは実家の教会寺院に戻り、活動拠点を構える予定です。

ニュースでは見えない苦悩にも敏感でありたい

これまで、一般的な仕事からパチンコ屋、飲食店など、さまざまな職業を経験してきました。資本主義という仕組みで成り立っている日本に生きていますから、社会の流れを知るためにも経済などの勉強も必要と思っています。知らないこと、興味がないことも、自身の生活に少なからずかかわっているからです。

あえて聖と俗を分かつ必要はありません。社会に溶け込んでこそ、人々の悩みを肌感覚で理解できます。時代や年齢で人の悩みは変化していきますから、僧侶として、ニュースや言葉だけでは見つけられない苦悩にも敏感でありたいと思います。

その悩み、本当に存在している?

仏教は肉体を通じた宗教であり、哲学、心理学でもあると思います。学べば世界の見え方が変わります。人生がどんどん面白くなるし、視野が多角的になり、自身の悩みに対する姿勢の質が上がります。

相談に来る方は「悩んでいる」とおっしゃいますが、本当の意味では悩んでおらず、何となく感じているだけかもしれません。「何か嫌だな」という感覚=悩みではないですよ。

環境や体調で食べ物の味が変わった経験はおありですか? 悩みも同じです。感覚が変化しただけで、食べ物の本質は変わりません。

仏教には、そのようなことに気付く仕掛けがたくさんあります。

そりの合わない人がいる。それの何が悪いの?

「苦しいので、悩みを消してください」という方もいらっしゃいますね。
私からすると、「消したいと思うから、苦しいんですよ!」

おっしゃる気持ちは分かりますが、悩みがあるのは自然な状態です。たとえば「会社にそりの合わない同僚がいる」という悩み。いったい何が問題なのでしょうか。そもそも会社は、主観も価値観も違う人間の集り。そりが合わない人が1人や2人いて当たり前です。

仏教には「唯識」という学びがありますが、環境そのものを含めて相手を見つめると、苦しみや悩みを転換させたり、救われることができるはずです。しかし、そう割り切れないときもありますよね。現実世界では結果を求められますから、そりの合わない同僚とチームでプロジェクトを成功させる必要がある、などのケースも多いようですが…。

現代人は「仕方ない」を忘れている

仏教は「世の中は自分の思い通り(都合通り)にはいかない」と説く教えです。悩む前に、考え方を転換しましょう。現代人は「仕方ない」を忘れています。仕方ない状況に、我慢がきかなくなっているのです。

先ほどのケースでは、同僚との関係で「仕方ない」を前提にしてみてはいかがでしょうか。「仕方ない」といっても、投げやりな姿勢を勧めているわけではありませんし、考えることを【放棄】してはいけません。

そりの合わない相手とは、腹を割って対話をしてみませんか?
仲が悪い理由は、本音で話せていないだけではないでしょうか。

最近は飲み会も減りましたが、仕事中の顔だけで同僚を判断せず、仕事から離れてモードが変わったときの違う一面にも目を向けてみてください。

あなたも、誰かを傷つけるかも知れない

ネガティブな場面には想像も必要です。怒っている人も、怒りたくて怒っているわけではないかも知れません。自分だってそうですよね。人の怒りに直面すると「なんでこいつは怒っているんだろう」と思います。しかしその人にもさまざまな理由があるのだろうと想像できれば、相手を断罪しなくなります。

怒りで人を傷つけてはいけないことは、誰でも知っています。でも傷つけてしまう人がいる。それに至る何かが、その人にはあったのでしょう。

たとえば自分の大切な人が目の前で誰かに傷つけられたら、傷つけた相手を衝動的に攻撃したくなる。そのような心の動きは誰しもが持っていて、それこそが「人という存在」でもあります。だから、もしかしたら自分自身も、誰かを傷つけてしまうかも知れない。人は、できごとの縁があれば、何をしでかすか分からない存在ですから。

だから、人の行為だけを見て断罪する社会は怖いですよ。我々は断片だけを見てアレコレいいがちですが、立場が変われば自分も断罪される側に回ります。それでいいのでしょうか。

引き寄せではなく、引き受けの法則で生きる


「引き寄せの法則」というメソッドに注目が集まったことがありますが、私は「引き受けの法則」の方がいいなと考えています。

引き寄せでは「私はコレが好き、コレが欲しい」という欲求や、一方的な主観による良し悪しがベースになっており、見たいものしか見ないという意識に陥りがちです。強烈な自我がベースになり、ご都合的な世界の実現を求めてしまうこともあるでしょう。

それに対して「引き受けの法則」では、こうしたいという願いにそぐわないことすらも、まとめて引き受ける。それこそが人生で、生きる面白さも見つかる気がします。

そもそも自分の生まれを選べる人はいません。誰しもが気付いたら生まれていたのですから、人生のはじまりは「受け入れ」からスタートしているのです。

説明のつかない、理屈を越えた「事実」を受け入れる力は、人生に必要不可欠です。その証拠に、自分の顔、声、身長…授かるものは選べません。しかし授かったものを「受け入れ」、どう活かすかの選択はできるはずです。

考え続ける姿勢そのものが、フリースタイルでありたい

私自身、どなたかと悩みについて考えるとき「仏教」だけにこだわってはいません。苦しみや悩みと向き合うメソッドの中で一番役に立つとは思っていますが、幸せのツールは仏教だけでありません。時代や生活が変化すれば新しい考え方も生まれてきますから、こだわらずに、その都度ベストな選択をすればよいのです。

その人が、そのときに出会った方法から、自分で選択できればよいですよね。そして自我という枠を越え、一切衆生の安寧を誓願とする実践の仏教に触れてもらえたら…と思っています。

これからの人類にとって、仏教の実践は大切なものを教えてくれるはずです。そういう意味でも、僧侶である身としてはベースはやはり仏教になりますね。

私が「フリースタイル」である理由は、所属や活動領域だけを指すのではなく、心持ちや生き方を含め、時代や人に合わせて常に考え続けることが重要だと考えているからです。


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