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子どもに理想を押し付けてはいけない

母は、「理想の子どもはこうあるべき」という完成図を持っていた。

私は陸上部の父母を持ちながら、運動に関しては本当にからっきしだったので

子どもの時は勉強に自分の全てを振っていた。

幸い、それに関しては、人よりもだいぶ出来た。
(典型的な早熟タイプで、後に周りに抜かれたが)
習っていたピアノも上達して、学校の行事では伴奏をつとめられるようになった。

何度「あなたみたいな子どもが欲しい」と
近所のお母様達に言われたか、わからない。

母の理想は、賢くて、真面目で、冗談も言えて
弟妹の面倒をよく見るお手伝いが出来る子だった。

それなりに出来ていた。と、思う。
無理をしていた訳ではないが、
良い子でいたかったし、そうでなければならないと思っていた。

そして、母は
「シックな真面目な女の子」を見た目から、持ち物から、全てにおいて私に求めていた。

どんな成り行きだったのかは覚えていないが、
近所の独身のおばさまと、地域の親子マラソンに出る機会があった。
走るのは3km程。

夏休みに、毎朝、その方とマラソンの練習をしたり
お喋りをしたりして過ごした。

無事にマラソン大会が終わった後、
「一緒に走ってくれてありがとう」と

藤編みのかごの上にかわいいくまちゃんが座っている、
とても可愛いバスケットをいただいた。
私は一目で気に入ったが、母は

「こんなもの」と言って笑った。

「え、こういうの欲しかったよ」と言うと

「ふぅん」と一言 呟いた。

可愛らしすぎて、母の趣味には合わなかった、
そう思った。

しばらくして、母方の祖母から、クリスマスか誕生日のプレゼントが届いて
それはとてもシックな、大人の女性が持つような小さなメイクボックスだった。

母は、とても喜んでいた。

しばらくして、私はくまのバスケットを捨てた。

高学年に差し掛かって、
私はこっそり、500円のいちごの飾りがついた指輪を買った。
憧れのSPEEDのhiroちゃんが、
雑誌で着けていたものと全く同じで心がふわふわした。

すぐに母に見つかり、
「あなたが指輪なんか買うとは思わなかった」
って泣かれた。
すぐに、その指輪はどこかに無くなった。


母が好きそうだと思って買った、スヌーピーのシックなペンケースは
「こんなもの早い」と、中身を全部捨てられた。

その後、靴や鞄をおこづかいで買える許可が降りるようになっても、
母が嫌いそうな、いわゆる「俗っぽいモノ」は、
怖くて買えなかった。

良い子でいたかった。

父を強い言葉で罵倒する母。
母をいつも泣かしている父。
それをみている小さなきょうだい。
日常にあった、しつけという暴力もあった。

そこに、「できないわたし」という問題を、
作りたくなかったのだ。

本当は、雑誌に載っているようなキラキラした可愛いペンケースが欲しかったし、
あの子が持っているような、パステルカラーのマニキュアも塗りたかった。

でも怖かった。

わたしはまだ、良い子を演じていた。

高校生になった私は、親戚のお姉さんが着ていた大きめのお下がりの古い制服を着ていた。
さすがに、これは駄目だろうと、新しい制服を購入したのだが
それが驚くほどスカート丈が長かった。

その頃は、短いスカートに紺のハイソックス、
ハルタのローファー、ポケットからはディズニーのストラップ。みたいな
コギャルの次、くらいの流行りの時期で

厳しい学校だったが、
ふくらはぎの真ん中まであるような長いスカートを

はいている子はいなかった。
明らかに野暮ったい。

母に「短くしたい」と頼んだが
私の小柄な体格に合わせて作った特注の制服は、
つくりも難しいらしいようで

地元の洋品店で丈詰めをお願いすると、
8000円かかる、と言われた。

「そんな無駄なものにお金かけるなんて無理」

「でも、これはおかしいよ。変だよ」

言い合いになった。

人生で、母にあんなに駄々をこねて、
泣きわめいた事は最初で最後だと思う。

子どものように主張する私を見て、母が

「じゃあ、あんたが自分でお金出して好きにすれば」

と言った。

その頃、両親は別居中で、母は仕事をしていなかった。
家にお金が無いのはわかっていた。
携帯を持っていないのはクラスでは私だけで、
学校ではアルバイトは禁止。
月のおこづかいは1500円。

余裕は無かった。
でも、もう、色々我慢するのには限界だった。

私は自分でお金をだして、スカートを直した。

母は「パンツが見えそうで変」と言ったが
私ははじめて、やりたい格好が出来た。

それから。



お金が無いのに、上の学校にいける訳がないのは、
子どもながらにわかっていて。
別居から同居に戻った父が無職になってからは、
なんかもう馬鹿馬鹿しくて
勉強なんかしなかった。


進学校をあんなに熱望していたのは両親なのに。

◯◯高校に行った賢いお嬢さん。を
見せたかっただけだった。

馬鹿みたい。そう思った。

結局、センター試験も、短大も受験したけれど
入学金が用意出来なくて、行けなかった。

何故、お金が無いと、言ってくれなかったのか。
「学校、行ってもいいよ」って言ったのか。

どうして、無職の時期も借金歴もある父親が、
銀行のローンを借りられると思ったのか。

奨学金を何百万と借りて短大に行く意味を、
コスパを、借金の怖さを、
何故、もっと一緒に考えて
「無理だ」と言ってくれなかったのか。

どんどん母が信用できなくなった。

卒業式の次の日、自室で左耳にピアスを開けた。
爽快感、背徳感、自由。自由。
社会は自由なんだ。

2年フリーターをしてお金を貯めて、
大学の通信科の入学手続き書類と
借りたいアパートの契約書をテーブルに置いて

家を出た。

大人になった私は、
ゴスロリやロリータパンクなど、
「可愛いもの」を着たいように着ていた。

ピアスも、続けてたくさん開けた。

母は、何も言わなかった。

もう、母も私も、自由なんだもの。

母の理想からは外れてしまったのだろう。

でも手に入れた自由は最高だった。
私の人生は、20歳の千葉のあの安い賃貸から始まった。

1986年生まれ。上京して12年目、母親になる事になりました。好きなものはサボテンと音楽です。