106.煮込めば煮込むほどカレーはおいしくなるのか? 問題

おいしいカレーを表現するのに煮込み時間の長さを標ぼうするスタイルは、もう昔の話と言ってもいいのだろうか? いや、今でもそれが機能する世界はきっとあるのだろう。おいしい、はとても曖昧な基準だから正解は出せないのだけれど、「煮込めば煮込むほどカレーがおいしくなる」という考え方は、正解であり不正解でもある。食材には適正な煮込み時間があり、それを超えてしまった場合、「煮込み時間が長くなれば、ソースはおいしくなるが具はおいしくなくなる」。そう考えてきた。これは今も変わらない。

今回は別の視点で、しかもとてもマニアックな視点で、同じ問題について考えたい。

今年の新刊の撮影が終わった。27種類のカレーのレシピを披露することになる。もう何年も前からそうしているのだけれど、僕は著書でカレーのレシピを紹介するとき、ひとつの決まりを作っている。“ひとつの遊びを忍ばせている”とも言えるし、“ひとつのハードルを設けている”とも言える。それは、「ソースをすべて違う色味に仕上げること」だ。トッピングや食材の色味に頼るのではなく、ソースの色味自体を変えたい。27種類のカレーを紹介するときは、27色のソースになるよう、レシピを設計している(実は、AIR SPICEのラインナップも同様)。読者にとってはそんなことはどうでもいい話だろうから、僕の自己満足であり、僕だけが楽しんでいる遊びであり、自分との闘いでもある。

今年の新刊ではさらにここに新たな条件を加えることにした。それは、ソースをクリアに仕上げること。色だけではなく、テクスチャーを滑らかに、混じりけのないものにしたい。漉し器で漉したような澄んだ状態に。そこで煮込み方が問題になる。実は、長い時間、煮込んだほうがソースのテクスチャーがクリアになるからだ。スパイスでカレーを作るとき、たいていの場合、何かしらのものを炒めてから水分を加えて煮込んでいく。煮込み始めると鍋の中に前半で炒めた食材が自由に動き回ることになる。でもすべてが動きっぱなしになるわけではない。動いたり動かなかったりする。この鍋中における煮込み中の食材の動きがソースのテクスチャーを左右する。

グラグラ煮立つような強火で煮込めば(僕はお勧めしないけれど)、食材がスープの中を泳いでいる間に次第に形が崩れ、食材と食材がぶつかったりこすれたりして形が崩れていく。弱火でコトコト静かに煮込めば、食材の中でスープよりも重たいものは鍋底に沈殿する。火があたっている鍋底でその食材は部分的に焼かれるような状態になる。すると、形は崩れていく。気をつけないと鍋底に焦げ付いてしまうこともあるけれど(業界用語で“あたる”と呼ばれるやつだ)。玉ねぎで考えるとわかりやすいかもしれない。前半で炒めたはずの玉ねぎが完成したカレーのどこにも見当たらないのは、これらの現象により崩れて溶け、ソースに融合しているからである。
荒波にもまれた人間の方が角が取れて丸くなっていく。そうすると世間になじみやすくなる、みたいなことかな。

崩す、崩す、と繰り返し言っているのは、僕がそういうカレーが好きだからだ。鍋中に加えた食材の役割分担が明確なカレー。具にした食材ははっきりと形が残り、ベースとして加熱した食材は崩れてつぶれて溶けてソースになり、形が全く残っていないカレー。それを僕なりの言葉でソースのテクスチャーがクリアなカレーと呼んでいる。煮込み方だけではなく、煮込み時間が長ければ長いほど、ソースはクリアになっていく。だから、そうしたい。でも、そうできない事情がある。具にする食材によって適正な煮込み時間があるからだ。

この悩みについては長年、頭を抱えてきたけれど、いくつかの解決策がある。ひとつは、大量調理すること。大鍋でたくさんの食材を煮込むと、重みによる沈殿量が増え、鍋底で焼かれて崩れる比率が高まる。同じレシピでもたくさん作るのと少し作るので味わいが変わる理由の一つだ。ただ、いつも大量に作るわけにはいかないから、4人分を小鍋で作る場合の解決策にはならない。後者の場合、僕が最近やっているのは、「水分を加えた後、具を加えるまでの時間を長くする」ということだ。具にする食材が鍋中に入っていないのだから、強火でグラグラ煮てもいいし、ふたをしてボコボコ煮ても味は壊れない。ある程度、ソースがクリアになったところで、肉や野菜を加えて適正時間だけ煮る。この手法が気に入っている。

ただ、こんなことにこだわったところで完成写真を見て、いったい何人の読者が「ソースがきれいだ」なんて感じてくれるのかはわからない。しかも、すべてのレシピにそのプロセスを組み込んでしまったら「水野のレシピは時間がかかって面倒だな」とか言われてしまうから、ほどほどにしている。よかれと思って自分でやっていることをすべて著書で表現できるわけではないのが、悩ましいところだ。だから僕は、この場を借りて半ば愚痴のようなことをこぼしているのだろう。

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水野仁輔

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