「モバイル」に暮らすということ #1:モバイルであるということ

 携帯電話など、一緒に移動しやすい機器などを「モバイル (Mobile)」という。名詞の「モビリティ (Mobility)」は、移動しやすいこと、流動性があることという意味だ。

 移動にも色々種類があるが、ここでは2月に主催したイベント「動くわたし、動かない私 —移動とまちづくり—」のあとに考えたことや、会中では十分議論できなかった社会・経済的な移動について、CURBEDで特集されている「小さな家」ムーブメントの特集記事(英語)を紐解きながら、少しまとめてみたいと思う。

 このイベントは、村上慧さんの「家を背負ってあるいた」(夕書房)からインスピレーションを得て、移動し続ける暮らし、公共とは何か、まちの役割とは、そして20年後の理想の自分のライフスタイルとは?を参加者も一緒に考える会であった。この会については発表者のプレゼン内容をOkinawa Dialogのはるなさんが記録してくれた素晴らしい書き起こしが、記事として残っているので、こちらを参考にしてほしい。

 イベントの後に課題として心に残っていたのは、以下の点である。
1.「移動できる/できない人」の他に「移動させられる/せざるを得ない人」という存在がいること
2.会中で紹介されたモバイルハウスたちは、どうしてもお金と自由を確保している人たち向けのラグジュアリーなものに見えてしまうこと
3.「仮設」の可能性について説明が足りなかったこと

 以上の点は、プレゼン後の参加者のディスカッション及び話題提供者同士の反省から宿題として私の心の中に引っかかっていたのである。これらはイベントの記録には残っていないため、キーワードを少し説明する。

「移動させられる/せざるを得ない人」
 
移動の自由は、なにも自分自身の状態(健康かどうか、お金があるのか、どこでも行きていける技術があるのか、家族はどうか…)だけに左右されるのではない。例えば「ダム等を建設する」「区画整理や再開発を行う」といった外部からの追い出し圧力や、ジェントリフィケーションによる地域の変化(家賃が高くなる等)、歴史的には植民地支配、そして紛争による難民や海面上昇による移民なども含まれてくる。これらの存在は、土地に対する権利を奪われてしまった、または放棄せざるを得なかった状態の人々である。これらの「移動」についても、言及する必要があった。ディスカッションで指摘してくれたのは韓国の学生さんであった。ありがたい。

ラグジュアリーなモバイルハウスは誰のものか
 モバイルハウスに住む人々は、遊牧民というよりも、引退後にトレイラー・ハウスで悠々自適に旅をする(そして自分の家に帰っていく)年金生活者に近いような印象も残す。それはおそらく私達にとってまだモバイルハウスで暮らすということにリアリティが見いだせないことが原因だろう。どうせ一時の道楽だろう、と思ってしまうのも無理はない。デザイン的に洗練されていればいるほど、高機能でこれなら住めそうだと思うほど、「でも、お高いんでしょう?」と考えてしまう。発泡スチロールで運べる家を作った村上さんと違って、これらのデザイナーズマンションのようなモバイルハウスに実際どんな人が住んでいるのか、私もよく知らない。

「仮設」の可能性
 これは打合せ段階で「キャンプバカ」が説明してくれたのだが、キャンプは「家ではなく、部屋をあちこちに開いている感覚」なのだそうだ。アウトドアを楽しみたい、というわけではなく、自分の部屋に好きなものを並べて、沢山人を呼んで、楽しそうにする。もちろんその部屋は家の中にあるわけではなく、公共の空間にオープンであるため、通りがかった人も、望めば参加できる。どこに開くのも自由で、閉じるのも自由だ。ずっと存在する目的はないので、簡単なつくりでいい。投資も少なくていい。なんなら、その場所にある材料でできるようになるなら理想的だと。彼にとって、キャンプは好きな場所で好きな空間を創り、好きなことを楽しむ手段なのである。「仮設」は、単なる場所を魅力的な「空間」に変える可能性を持っている。

残る疑問
 移動を余儀なくされる人々が、自分の意思で自分のいるべき場所を決めることはいかに可能だろうか。モバイルハウスは果たして金持ちの道楽なのか。社会的・経済的な余裕が無ければ、移動する/しないの自由は叶わないのか。「仮設」の可能性はこれらの疑問にいかに資するだろうか。

小さな家ムーブメント(Tiny House Movement)とモバイルな暮らし
 結論めいたものから先に述べる。
 イベントで紹介したような、常に移動を続けるための本当の意味でのモバイルハウスは、まだまだ現実味がないかもしれないが、それを所有するのではなく、仮設的にあちこちにあったら、どうだろうか。モバイルハウス≒家を転々とするモバイルな暮らしと考えた時、ハウス自体を所有する必要はなくなる。まずは安価で手に入れやすい家に住んでみる。このハウスが自身の社会的・経済的な地盤となったとき、次なる場所へ、次なる家へ移ることができる。そこに住む人の社会的・経済的な流動性(=Economic Mobility)も向上することが期待できるのだ。モバイルハウスは、よりしっかりした家を手に入れるための踏み台になる可能性もある。

 従来のように大きく、地面にひっついた状態ではない形態であるため、「仮設」的空間としての可能性も残している。その家を置く場所は、(法律と相談すれば)案外自由自在なのである。オープンで仮設的なコミュニティに住むことにより、より自由で流動的なライフスタイルを手に入れる手段となることも考えられる。また、集合住宅とは異なる形で「集住」が実現でき、その中のコミュニティを形成している例もある。

 モバイルで仮設的な家の可能性と、その個人への経済・社会的な基盤となる可能性について伝えてくれるのが、CurbedのTiny Houseについての特集だ。上の疑問と、どうしてこういった結論にたどりついたのかを知るために、Curbedで紹介されている事例について説明させてほしい。

次の記事:文化的・制度的な前提について

※投資としての家、家を所有するか/賃貸かという問題はまた今度

 


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