見出し画像

J-Popの活路はインドネシアにあると勝手に思ってる話

まずはこちらを御覧ください。

おわかりだろうか。かわいいだろう?

そして、めちゃめちゃJ-Popだ。
マッキー感とか平井堅感とか星野源感がある。
ちょっと惜しい日本語も、とってもかわいい。(「がっかりさせて、ごめんなさいね」…かわいい。)

これは、インドネシアのバンドLalahutaによる楽曲である。
すっかりK-Pop一色になってしまったこの時代に、このJ-Pop調の楽曲を、しかも日本語で、しかも2020年に発表しているのである。

さて、これから私が今朝思いをめぐらせた「J-Popの活路はインドネシアにあると勝手に思ってる」ことについて私の経験と記憶と知識をパッチワークした感じで勝手に記述する。仮説の形になる前の仮説の仮説、くらいで、むしろ私の考えていることを強化するような事例や、ひっくり返すような反例があれば教えてほしい。そんなネタとして聞いていただければ幸いだ。

K-Popがつくる時代とメッセージ

世界にはすでに、英語圏はおろか東南アジアから中東に至るまで、K-Popの波が押し寄せている。K-Popを輸入するだけでなく、ローカライズされた地元のユニットも多く結成されている。数年前までJ-Pop、特にジャニーズが大活躍していたタイも、すっかりK-Popの世界的潮流に飲み込まれている。

そんな中で、なぜインドネシアはまだJ-Popフォロワーが健在なのだろうか。それは、男女のジェンダーノームとその価値感が色濃く残る、イスラム教の影響が強い地域だからではないだろうか。

K-Popが運ぶのは、男/女というバイナリなジェンダー概念をゆるがす価値観、割とリベラルで開放的な文化である。男性のメイクも、ジェンダーレスな服装も、韓国から大きく広がりを見せている。それは、ジャニーズの打ち出す「少年的なもの」とは全く違った、フェミニンに寄ったものだ。

タイはもともとジェンダー観念が割とゆるやかだったので、かなりK−Popがハマりやすかったのではないかと思う。

↑「いかにK-Popが男性性(マスキュリニティ)を変化させているか」

映画化もされた「82年生まれ、キム・ジヨン」を始めとした近年の韓国文学に見られるように、儒教的で家父長的な価値観に疑問を呈し始めているのもまた韓国である。K−Popは、音楽を緒に韓国で起きていること自体にも目を向けさせ、ジェンダーイメージだけではなく、このようにフェミニズム的・そして人権主義的な価値観も共に広めつつあるとい言えるだろう。BTSの国連のスピーチも、社会的な価値観や役割ではなく「自分自身」に目を向け愛せるように、というメッセージだった。

ちょっと保守的な価値観とJ-Pop

実際、様々な国で「自家製」K-Popグループみたいなのができているのを観察する中、ジェンダーに関する固定観念がまだ文化的・宗教的に強く残っているであろうと思われる地域では、あまりそのような例をみない。特にイスラム圏は難しいだろうと感じている。インドネシアでもそのような例はまだ見つけられていない(そういえばマレーシアも気になる)。

イスラム圏の例で見つけたのは、大変意外なことにカザフスタンの例だった。しかし、やはり保守的・イスラム的な価値観が主流な社会の中でかなり苦戦を強いられているようである。

さて、こういった地域では、露出が多かったり、女性が強そうだったり、ジェンダーレスなファッションより、圧倒的に保守的なジェンダーイメージが支持されていると考える。だから、どちらかというと日本の「制服」や「先輩」と言った記号(及び言葉)は、条順で年功序列的、固定されたジェンダー概念とは比較的相性がいいはずだ。実際、ジャカルタ48などはかなりの人気をすでに得ており、まだまだ活発に活動しているようである。

そして、インドネシアは意外と日本のポップカルチャー・メディアに長年慣れ親しんでいる国である。大学時代に出会った留学生(同世代〜少し上)が、みんな「おしん」のことを知っているのには本当に驚いた。もちろん、ドラえもんやその他アニメ・漫画もよく見られている。たぶん日本企業も多く進出している上、日本語学習者も割といるはずだ(これは完全に思い込みなので要調査)。

K-popに押されているからといえ、日本のカルチャーがその存在を失ったわけではない。「かわいい」文化は間違いなく世界中に浸透し、むしろ普遍的になってさえいるとまで思う。
(「かわいい」の文化が運ぶ意味については、別の考察が必要だ。)

これはインドネシアの英・日・インドネシア語のトリリンガルVTuber。
かわいい。めっちゃかわいい。

様々な楽曲を日本語でカバーするインドネシアのYoutuberも有名だが、この声の出し方はめちゃアニメだ。インドネシア語自体も割と高めの発音(そして早口…)気味の言語なので、その親和性もあるのかもしれない。

かわいい。

J-Pop の物語を「構成」するセオリー

最後に。冒頭に紹介したLalahutaの楽曲は、日本語である以上に、J-Popの物語を構成するセオリーに非常に忠実な作品でもある。

J-Popの物語構成については、アメリカのサックス奏者、 Patrick Bartley, Jr.氏のインタビューからだ。これ、マジみんな鳥肌立つから見てほしい。たった6分程度の動画だから。

Patrick氏は、J-Popに特有な組み立てについてこう説明する。

・「緊張」と「緩和」の公式がある
・「アイデア」と「物語」を構築している
・プロットや設定を整えるのが「メロ」で「サビ」がクライマックス
・「サビ」という「理由」が葛藤や矛盾を「解決」する
・「テーマ」=メロディが物語の流れを設定するプロット
・「理由」で終わる

この文法を一連の流れとすると、こんな感じだろうか

1.テーマ:「プロット」の役割。物語全体の設定を表現する。
2.理由付け:葛藤や矛盾を表現する。テーマと対になるもの
3.クライマックス=サビ:「解決」へ至る
 ※しかし、特徴として「メロディは情報しているのにコードは下がる」
 (音階が下がり、一時的にメジャーからマイナーへ)
 →これを氏は「情緒的な”テンション”に文脈を付与してそれを開放している」と説明する。

文字にすると抽象的でややこしすぎるが、動画を見た方はすんなり理解できていることと思う(ここまで読んで動画をまだ見てない人、見たら、わかりますって。本当に)。いわゆるAメロ→Bメロ→サビ、みたいな流れだと思う(そしてこれがJ−Popに特有なんだろうとも思う)。

特に「情緒的な”テンション”に文脈を付与してそれを開放している」の部分。世界に一つだけの花、おジャ魔女どれみの主題歌からポリリズム、パプリカ、演歌や歌謡曲に至るまで…考えてみれば日本の音楽に広く共通する物語の構成がそこに見えてくる気がしないだろうか。

この記事で紹介されている「未練進行」なるものもその一種かもしれない。

さて、ここまで色々読んだ上で、今一度この曲を聞いてみてほしい。
改めて気づくことが沢山あるはずだ。

流行りや時代云々なんじゃなくて、J-PopはJ-Popとして続くんだろう。

文法的な面で言えば、K-Popはヒップホップ的な文法に近く、そこにポップ要素が加わった発明だ。それは音楽や文化の進化の形であって、新たな多様性である。だから、J−Popが淘汰されるだの何だのではなく、J-PopはJ-Popというジャンルとしてきっとそのまま、残っていく。「かわいい」とか「葛藤や矛盾」みたいなテーマを抱えて。だから、J−Pop市場はインドネシア大事にしたほうが良いんじゃないかと思っている。

J-Popや「かわいい」が運ぶ意味が、今のそのままであれとは思わない。紅白などを見ていても、J-Popはもうほぼガラパゴス状態だろう。だから、「かわいい」も男性にももっと消費されるものになればいいし、そうなってきていると思う。(韓国も「かわいい」を取り入れているよね)。イスラム圏の文化も変わりつつあったりするので、そこはステレオタイプ的に語るべきではないだろうなと思ってもいる(ヒジャブも最高におしゃれなアイテムになりつつある。もちろん、宗教的に「選択」して着ているという意思の表現という意味で。)

余談:Yuna Zaraiもかっこいいよ。Qniqloとここ数年コラボしているHana Tajimaもとてもかっこいい。

 「J-Popの活路」というのは、そのジャンルにとても親和性を見出しているインドネシアのように、J-PopがJ-Popとして続いていく未来だ。

余談:ついでに、日本のミュージックビデオあるある。

追記)日本で作られた・日本から売られているすべての曲が「J−Pop」なわけではありません。もちろん、日本にも色んな種類の音楽がある。「J-Pop」あるいは日本のポップスの型のようなものが、確率されていて、それはもう「J−Pop」という1つのジャンルだよね、という認識です。

ちょっとでも面白いなーと思っていただけましたら、ぜひサポートよろしくお願いします!今後の活動の糧にさせていただきます◎ あろは!