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掌編小説「猫がついてくる」


 先ほどから僕の足元にぴったりと黒猫がついてきていた。

 その日は、昼を過ぎてから激しい雨が降ってきた。僕はちょうど見つけたコンビニに立ち寄って、そこで傘を買った。透明な白い傘をさしながら、なんの感慨もなく、どこへ向かうこともなく僕は道を歩いていた。その猫は、路上駐車をしている車の下で身を低くしてひっそりといた。僕は猫に気づいてはいたが、取り立てて犬や猫のことが好きではなく、目は何となく向けていたものの特に自ら近づくといったようなことはしなかった。

 それは、僕が車の横を通り過ぎる際のことだった。猫が、まさにシマウマを襲うライオンのように僕に向かって素早く飛び出してきたのだ。毛の短い黒猫だった。前を歩いていた僕は驚いて、猫から避けるように退いた。だけど、相手もその分だけ前を進んだ。それから僕の足元にひっついてきた。ひっついてから、少し後悔するように離れた。僕がその場で立ち止まっていると、猫のほうも僕と一定の、ごく僅かな距離を維持したまま、そこにいた。濡れるのが嫌なのか、尻をつけることはなかった。自分の手持ちといえば小さな肩掛けカバンぐらいのもので、食べ物になるようなものといえば、ミント味のガムぐらいしかなかった。僕はカバンからガムを取り出すと、黒猫にこれから手品を披露するようにガムを見せる。包み紙を開き、かがんで猫の濡れた鼻に近づけていった。猫の方は僕の手をひっかくこともなく、黄色い目で何も主張せず、ただ僕を見つめていた。猫の鼻の前までガムを持っていくと、ガムのにおいをかぎ始めた。ミントのにおいがキツかったのか、少しだけ顔をしかめると、「あおーん」と鳴いた。

 僕はそのガムを自分の口に放り込むと、またどこへ向かうこともなく歩き出した。歩くと、僕を追うようにその猫はついてきた。しばらくしてもそれは同じで歩調を緩めても速めても、同じようについてきた。

 再びコンビニを見つけ、僕は持っていた傘を猫にやってから店に入った。キャットフードが目についたが、僕はそれを無視して似たようなデザインの、今度は黒い傘を買った。店を出る。猫は傘を家代わりにしたまま、そこにじっとしていた。

 まさかな。僕はそう思いながら黒い傘をゆっくりと開く。すると、黒猫は透明な家から飛び出して僕がさした新しい傘に入ってきた。僕はその傘も、猫にやった。けっこう高かったのだが、仕方がない。僕が踵を返して歩き出すと、「あおーん」と鳴いた声が聞こえた。しばらく歩いても、その声は僕から離れることはなかった。僕はため息をついてコンビニまで戻ると、傘を掴んだ。どちらでもよかったのだが、白い方を拾ってから、再び歩き出す。

 降り続いていた雨が止むと、ついてきていた黒猫は、いつの間にか僕の足元から消えていた。

 夕暮れの帰り道に、僕は傘を置いてきたコンビニに立ち寄って中に入った。黒い傘はすでにそこになかった。

 店を出て再び歩く。いまだに路上駐車をしていた車を見つけ、その下をためしに覗き込んでみた。そこには丸い目を光らせて、身を潜めている黒猫がいた。先ほどの猫かどうかは分からなかった。僕はコンビニの袋から買っておいたキャットフードの缶を取り出して、蓋を開けた。それを猫の前に置いてから、その場から立ち去ろうと腰をあげた。

 猫の、「あおーん」という鳴き声が聞こえてきた。僕はその鳴き声にこだまするように、小さな口笛を吹いた。歩くたびに、猫の鳴き声はだんだんと遠ざかっていった。やがて鳴き声が聞こえなくなっても、僕は小さな口笛を家に戻るまで吹き続けた。

(了)


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