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「表現の不自由展かんさい」を訪ねて

先日、エル・おおさか(大阪市)で開催された「表現の不自由展かんさい」に足を運んだ。
最寄駅である京阪天満橋駅から、会場へ徒歩で移動したのだが、およそ数分の間に、四台の街宣車が横を通り過ぎていった。しかもただ「通り過ぎていった」のなら何の問題もないわけだが、耳を手で押さえたくなるような大音量も流していた。私の横を歩いていたおばあちゃんが、立ち止まって耳に手をあてていたほどである。

会場のエル・おおさかに着くと、あたりには所狭しに警察官が配置されていた。「厳戒態勢」という言葉がしっくりくる光景である。
所謂「街宣右翼」だろうか。彼らの攻撃的な言葉が拡声器を通して鳴り響く。そのなかに「この展示は日本人ヘイトだ」という文言があった。日本において「日本人」は明らかにマジョリティなのに、それに対するヘイトって何だろう。そういう風にいえば、同じ日本人から共感を得られるとでも思っているのだろうか。その短絡さに、心が暗くなった。

一大学生である私は、無料で展示を観覧することができる。何だか申し訳ない気持ちで心が満たされたが、ここは甘えて享受させてもらう。
9階会場は、静寂した空間の中に、多くの観覧者の姿があった。街宣者は何度も「この展示会はじじいばばあしか見ていない」と叫んでいたが、若い人の姿も一定数見られた。
私は展示物とその横に貼られた解説文を交互に見やりながら、ひとつひとつ会場奥へと歩みを進めていく。
「表現の不自由展かんさい 開催に寄せて」と題されたキャプションボードが目に止まる。開催するまでの多難さと開催目的が綴られたこのキャプションは、とても印象的なものだった。以下に引用しておきたい。

「芸術作品は表現するために存在するというのに、なぜそれが隠されなければならないのでしょうか。その理由を問わずにはおれない、開幕までの3週間でした。」
「6月25日、私たちは突如としてエルおおさか側から会場使用許可取り消しの連絡を受けました。理由は「安全の確保が難しい」というものです。その日までにあったエルおおさかへの抗議電話やメールは70件、抗議街宣が3件。それがエルおおさか側の言う危険性の根拠です。
 私たちは6月30日に裁判を提訴し、7月9日に大阪地裁は表現の不自由展かんさいの開催を認める決定をしました。そこでは「憲法で保障された表現の自由の一環として開催が保障されるべきものだ」と明確に指摘しています。
 ナショナリスト、レイシストからの抗議・妨害は想定していたものの、裁判を闘うことになろうとは予想だにしていませんでした。その苦難のすえの今日の開催があります。」

最後の一文には考えさせられるものがある。
昨今、政治家がパフォーマンスの一環として、一展示会を取り上げ非難する光景を見ることが多くなった。この非難は、展示会をやめさせたい人間たちの行動に、ある種の「正当性」を与えることになってしまう。もしもここから、ただ喚き立てる抗議街宣ではなく、深い傷や死者を生じさせる行動に発展したりでもしたら、どう政治家は責任を取るつもりなのだろうか。(大阪府民としては、今回の吉村洋文知事の行動・発言には、憤りを覚えるばかりだった。)

一通り展示に目を通してから、二つ目の部屋に移る。そこには、2019年の愛知トリエンナーレでも攻撃の的となった「平和の少女像」をはじめ、年表や絵画作品が展示されていた。(以下、写真一枚目:「平和の少女像」、二枚目:「償わなければならないこと」)

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私はそこで印象的な場面に遭遇した。
「平和の少女像」の方を向きながら、おそらく夫婦だと思われるご年配の男女が話をしている。妻が夫に「像の横に座ってよ。写真撮るから」と催促する。それに対して夫は少し苦笑気味に「いやいや。恥ずかしいよ」と頑なに撮影を拒んでいた。
この「恥ずかしい」には、色んな意味が込められているとわたしには感じられた。展示室内では、多くの人が「平和の少女像」に視線を向けていたから、そのなかに割り込んで写真撮影をすることに恥ずかしさを覚えるのはよく分かる。
一方で気になったのが、男性が「苦笑気味」であった点である。もし男性が、「平和の少女像」の来歴についてある程度知っている人間ならば、像を前にして複雑な心境になったことは否めない。それが表情として現れたのが「苦笑」だったのだ。
少女像の横にあまりためらうことなく座る人には、比較的女性が多かったような気がする。もちろん男性にも、さっと横に座り撮影している人はいたが、それはおそらく以前にも少女像を見る機会があり、同じように撮影した経験がある人だったのだろう。
兎にも角にも、「平和の少女像」は見る人に様々な感情を惹起させる展示物だった。

展示会を見終わって一番に感じたことは、「やはり実際に見てみることが大切なんだな」ということである。メディアが報じる会場外の様子や、ネット上にある否定的な言説に触れ、そこから勝手に展示内容を想像してしまうと、現実の展示とは乖離したものに膨れ上がっていってしまう。
おそらく、会場外で抗議街宣をしている人たちは、ほとんど現実の展示について知らないのではないだろうか。それこそネット上で断片的な情報だけを聞きかじって、ひたすら想像を逞しくした結果、自らが生み出した「空想の展示会」に囚われるようになってしまったのではないか、と。
また、単純に「仲間の〇〇さんが悪く言っていたから」という一点だけをもって、「展示会はけしからん」と声をあげている人も多くいることだろう。私自身、変な風に転べば、この中の一人になっていた可能性は十分にある。この点は強く反省して、「百聞は一見にしかず」を徹底していくしかない。加えて、主観を相対化するためにも、様々な展示レポートに目を通してみることも忘れないようにしたい。

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