見出し画像

「花束を君に」聴いて泣いた。

SONGS が素晴らしかった素晴らしかったと、ここかしこで見たり聞いたりしたが、わたしは見ていない。子育てとテレビの相性は悪い。言わずもがな、”この曜日のこの時間にテレビの前にいなければならない現象”を作り出すことはたいへんハードルが高いからだ。

パリに暮らす、敬愛する友人A.Kが、「とと姉ちゃんをあっちから見てるんだけど、それを日々見ることが息子とのコミュニケーションにさえなってるんだけど、主人公の子みるたびにあなたのこと思い出すんだ、なぜか」と言った。「なんで?」「うーん、どうしてだろ、一生懸命なとこ、とか?」「え?わたし、そんな印象あるの?」 

そんな”???”が多かったのだが、一生懸命に生きてその人の周りの人をだんだん変えていく人にわたしは憧れるし尊敬するから、そう言われたことは単純に嬉しかった。それが頭の片隅に残っていたのだろう、まもなく終了するらしいその番組を、たまたま見たのが先日である。主婦のための雑誌を創刊する主人公が、「子供がいないわたしが、子供のようなものを何か残せないかと考えて、母が伝えてくれたことを文章にしたいと思いました」と言っていたことはとても印象に残った。

誰しも何かを持ってない。すべてを持ってる人なんていない。その足りないものをまっすぐ見つめる、そしてそれを声に出して自分以外に言える強さに、心惹かれた。最近わたしが考え続けていることとたまたまリンクしたことも大きい。

連続テレビ小説の主題歌として初めて耳にしたのが、宇多田ヒカルの「花束を君に」。難しいコードを書く印象がある宇多田が、カーブだけどストライクの曲を書いたんだなと思った。丸みを帯びた温かい声。ところどころ耳に残る歌詞。それが聴き入ってしまうメロディーに乗せられていた。胸に残り、そのあとも時々この歌を思い出した。何を思って書いたのだろうな、そんなことを瞑想したりした。

そしてさっき、SONGSをYouTubeで見つけて聞いた。テレビを写したものだったので、音は悪い。今、わたしは子供の寝ている横で最小量のボリュームで聴いてるから、集中するにも限界がある状況である。でも、なんだ。なんなんだ。この歌は。

世界中が雨の日も君の笑顔が僕の太陽だったよ
神様しか知らないまま今日は贈ろう
毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無くただ楽しいことばかりだったら
(抜粋・順不同)

パックに浸した顔の下で涙がこぼれるているのを感じた。響いてくる。しとしと雨みたいに、わたしの心にもこの歌が小さく積もっていく。この人は、何かを清算したのだろう。そう思った。諦めと優しさと清々しさが混じってる音楽。届け、届けと歌ってない。歌がそこにあるだけ。歌がそこにそっと置かれているだけ。

その後、これが彼女のお母さんのことを書いた歌だと知って、知りたくなかったのにな、と思った。

言葉にできないことは溢れすぎてる。
でも、全部言葉にできるようにわたしは錯覚する。でも、できてない。できてないよ。まったくもってできてない。時間もないし、起こったことを端から忘れていってるし、書くエネルギーが残らず一日がおわってゆく。言葉にさえできていないのに、いわんや書きものをや。本当は、小さな思い出を忘れないために、然るべきところに書き残し大事に心の箱にしまって、時々思い出して、取り出してまた戻したりしたい。でもそんな丁寧な生き方をしていないし、できもしない。日常忘れている心の箱にあるものを思い出させてくれたから、この歌はわたしを泣かせたんだと思った。

大事な人がいるのに、いつも大事なまなざしで見つめていないわたしがいることを知ってる。そのまなざしは、大事に「しよう」と思ってできることじゃなくて、大事だと十分すぎるくらい「知ってて」77ついそうなってしまう」まなざしなんだけど、でも、わたしはそういう目の色をしていないと思う、ごくたまにしか。それが惜しいことだと、思い出させてくれるから、この歌を聴くと涙が出る。

リピートして聴いていましたが、夜が明け始めたので、曲を止めて寝ようと思います。

おやすみなさい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?