子どもの英語習得における地獄

本記事は、米国オレゴン州ポートランドを中心に毎月発行されている日系紙「夕焼け新聞」に連載中のコラム『第8スタジオ』からの転載(加筆含む)です。通常、1記事150円~200円ですが、今回に限り、全文無料で公開しようと試みましたが、note有料マガジン内にて1記事のみ無料とすることはできませんでした。よって今回は、無料範囲を限りなく末尾まで広げるという方法によって、無料公開を実現させることとしました(一部お問い合わせいただいた皆様、たいへん遅くなりました)。予告なく終了することもありますのでご了承ください。
海外在住日本人の子どもの英語習得の地獄というのは、案外語られません。うまくいったあとに、過去の苦労話の事例として語られることがほとんです。しかし実際にはこの状況に現在進行形で困っている人は多数いらっしゃいます。その方たちに届くようにと思い、書きました。

わたしの親(義両親も含めて)は、日本に帰国するたび「孫の英語が聞きたい」という。ネイティブの発音で数を数えようものなら狂喜乱舞する。

「もっと英語を話して」「例えばこれは英語でなんていうの?」と促す。「もう日本語が通じなくなっとるかもしれんね」と冗談交じりで発する。

その目はキラキラと輝き、まるで悪意はなく、孫が話す英語を今か今か、と待ちわびている。まるで餌をもらうひな鳥のように。その気持ちもわかる。

多くの日本人にとって(当然わたしも含めて)英語は未だ苦手な言語であり、ゆえに英語が話せる人は世界で活躍するグローバルな「できる人」という羨望と憧れがあるから、自分たちにはできないそれをやってのける孫を見て誇らしく思いたいのだ。

孫を眩しく誇らしく思いたい、そういう感情もあるだろう。

普段はアメリカに住んでいて、自分たちとは到底違う子ども時代を過ごす孫を、視覚的に聴覚的に感じたいのだろう。

そして、実際にそういうコメントに我が子がどう応えるかというと、とまっている。微動だにしない。顔が固まり、表情はなくなり、呆然としている。文字通り、硬直化。

幼いゆえ、えへへと笑ってやり過ごす方法も、ほかの話題に自然に差し替えるということも、「何を期待してそんなことを聞くの?」という本質的な問い返しも、もちろんすべて会得していないので、彼らはその質問を真正面で受け止め、そして実際に困っている。

だって期待されるほど英語を理解していないのは自分が誰よりもわかっているから。大好きな“ばあば”“じいじ”に期待されているものを差し出せないのは、何より本人が辛い。

自分って二級品なんじゃないか、アメリカに暮らしているのに英語を話せていない自分はどこかおかしいんじゃないか、何かが足りないんじゃないか、隣に座る我が子がそんな気持ちに見舞われているのがわたしには手に取るようにわかる。

つまるところ娘たちは傷ついている。

考えてもみてほしい。海外の地に暮らせば、そこの言葉がしゃべれるようになるなんて幻想である。

あなたが例えば3か月、アメリカに暮らしたとして英語が話せるようになると想像できますか?言語というのは、現地の学校に数ヶ月や一年程度通っているからといって一朝一夕に話せるようなものではない。

まず「わからないままそこに居続ける」という状況に慣れるだけでも大変なのに。うちの子は、わからない言語で語られる場に、毎日何時間も通っているのだ。わたしは掛け値なしに尊敬する。

学校でも家でも英語だけでいくなら、英語の習得はしやすいかもしれない。赤ちゃんが言葉を覚えていくように。わたしが日本語を苦労することなく習得したように。

けれども特定の言語が確立した後に、家では日本語を使いながら、学校でもう一言語(英語)を足してしゃべろうとすれば混乱は必須なわけで、バイリンガルというのはまったくもって簡単じゃない。

自分の意志でその挑戦をしているならば耐えられるかもしれないが(それでも耐えられず挫折して帰った人を幾人か知っている)、彼女はそもそも自分でそれを欲したわけじゃない。

長女はボストンで生まれ、1歳8ヶ月までそこで育ち、そのあと一旦東京に帰り、東京の保育園に2歳2ヶ月まで通った。なのでこのとき、東京で暮らしたのはほんの6ヶ月だ。わたしの育休は1年半までと決まっていたので、保育園に入れるまでの期間、もっていた有給の2ヶ月を足してそうなった。

ボストンから日本に戻る際、わたしは次の子を妊娠しているかも、と思っていたけれど、その前に流産をして死ぬ思いをしたので、妊娠に確信がもてなかった。そんな状態での復職は辛かった。

つわりに加えて、目の前にいる人に「また育休をとるかもしれない」と伝えなければならなかったからだ。「また休むつもりなの?」という非難めいた表情で、そうとは言わないまでも言外にその雰囲気を感じ取るたび、同僚や上司に「流産したことがありますか?確実に生まれるとは決まっていませんのでどうなるかわかりませんよ」と返して毎度ぎょっとさせた。

再びボストンに戻ったのは、その妊娠が確定的となり、第二子を長女と同じようにアメリカで産むと決めたからである。その後、2度目のボストン生活は第二子の出産とともに始まり、一年のうち半分は冬という極寒の地で、ふたりの子育てに追われた。東京の保育園で「毎日親と離れて同じ場所に通う」ことをしてリズムがつかめていた長女はしかし、2度目のボストンですぐにデイケア(0歳~2歳9ヶ月になるまでの子どもが通う保育園)にいれることはできなかった。

このときデイケアに通っていたら、あるいは「英語習得の地獄」という問題は我が家に起きていなかったかもしれない。言語の習得というのは、年齢に大きく関係する。特定の言語も話さぬ前に、英語のデイケアにいれれば、それが本人の主だった言語になる可能性は高い。

けれどもできなかった。経済的な問題からである。

私たちが預けようと検討した園は大学内に併設された園だったが、週5日フルタイムで預けて日本円にして月額27万円かかったのである(当然為替によるが、ひと月25万から30万の間と考えてもらって相違ない)。当然無理だった。

そしてデイケアの期間(ベイビーからトドラーといわれる期間)が終わり、プリスクーラーの域となった長女は、ようやく3歳4ヶ月からプリスクール(2歳9ヶ月以降の、小学校にあがる前にいく保育園・幼稚園の総称)に登園することになった。

園をいくつかまわり、実際に通っている親御さんの口コミや評判も聞き、内容も先生もここなら大丈夫だろう、というところに通うことになった。

が、しかし、道のりは困難を極める。

長女は非常に日本語の習得が早い方だった。1歳になる前から、くっきりはっきりと「はいっ!」と返事をし、自分の言葉で自分の気持ちを表現することに長けていた。

3歳4ヶ月の娘は、完全にすべてが英語でおこなわれる環境に、1ヶ月経っても3ヶ月経っても半年経ってもまったく慣れることがなかった。

わけがわからないことが続くという状態が彼女には耐えがたかったのではないか、と思う。

園での様子をときどき動画に撮って、親に送ったりしたが「何をするにも一歩遅れている」ことを指摘されたとき、なるほどそうだと思った。

何故なら英語で先生が何を言っているかわからないから。

「ハサミをとりなさい」
「ママやパパの絵を自由に描いてみよう」
「ここから走ってみよう」
すべて英語でわけが分からないわけだから、先生の言葉をくみ取って自ら動くことはできない。じゃあどうするかというと、周りの友達の動きをみて、その真似をするということでやり過ごすのだ。だから全部一歩遅れる。

結果、常に周りの様子を気にすることになる。

そしてお昼寝の時間をとても嫌がった。何故なら靴で寝なければいけなかったからである。

これは園によるだろうが、私たちの通った園は安全上の理由から裸足になって眠ることを推奨しなかった。靴を内ばきのものに履き替えてもいいから、靴というものをなにがしか履いて眠らなければならなかった。彼女は拒否反応を示し、そしてお昼寝の時間に眠ることができなかった。快適でもなく、安心もできなかったからだろう。

彼女はまったく心を許していなかった。

おしゃべりして意思の疎通ができることを大いに楽しみ始める3歳という年齢で、彼女はそれを楽しむ術を(私たちが外国に住む選択をしたことによって)奪われ、孤独感を募らせた。

彼女にとって学校はまったく楽しくない、孤独を噛みしめる場所になってしまっていた。

当然学校には行きたがらない。

泣いた。

ドアにしがみついて離れたがらない。

わたしも泣いた。

なぜこんなにも苦しみの場所に子どもをやらねばならないのかと思う一方で、進まなければ何も得られないとも思っていたし、乳児(下の子)の世話に追われるわたしには毎日ふたりの世話をするというのはキャパオーバーで行ってもらわなければ困る、という気持ちもあった。

そして多額の費用がかかっているのだから行かなければ勿体ないという“せっかく根性”もあった。

周りは「最初は誰でもそうだよ」「もう少しで慣れるから大丈夫」「そのうち日本語を話さなくなって困るようになるわよ」と口々に励まし慰めてくれたが、渦中にいる人は誰でもそうであるように、そういう言葉は意味をなさない。

つまり「待つ」ことを勧めてくれているわけだけど、じゃあいつまで待てばいいの? 待てば本当に解決するの?

その分水嶺がどこにあるか分かるなら、わたしはそれを知りたい。

その「いつか」はいつ来るのですか?

でも当たり前にそんなことは誰にもわからないし、なんなら英語をまったく会得できずに帰った「帰国子女」も本当はいっぱいいたはずで、わたしたちの耳に入ってくるのはたまたまの成功例だけかもしれないのに。

英語を会得できずに帰国する子どもの、例えば第一人者に自分の子どもがならない可能性がどこにあるだろう。

先生とは何度も面談の場をもった。親と先生の両面から子どもを支えよう、もっと溶け込めるようにしようとした。先生は日本語のいくつかの単語を覚え、それを口にするようにさえしてくれた。

でも事態は好転せず、解決の糸口は見つからないまま、わたしは娘とともに帰国することを決めた。

この地獄からやっと逃げられる。

それが子ども二人連れのシングルワーママに戻ることを意味しても決断は揺るがなかった。

二度目の復職のタイミングが来ていた好機だったし、夫は仕事上ボストンに残るしか選択肢がなくパパとは暮らせなくなるが、娘は日本語環境の保育園に入れば、きっと笑顔を取り戻し安定するだろうと、半ば賭けるような気持ちだったのだ。

実家は九州で頼るには遠く、東京の家を引き払ってアメリカに来ていたわたしたちには、再び家探しをし、家具をそろえ、という大いなる労力を伴うところから始めねばならなかったけれど、それでもこの撤退は、勇気ある英断だったと今でも思う。

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子どもの英語習得における地獄

相薗 淑子

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相薗 淑子

ライター・校閲/アメリカの地方新聞でコラム連載中/カリフォルニア在住/2017年米国在住/1981年福岡生まれ/2005年某ラジオ局入社、ディレクター等を経て2017年退社/好きな食べ物:酢ごぼう

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コメント1件

もう覚えていないかもしれませんが、ちょうどこの時期私達はボストンを訪ねたのです。こどもは10ヶ月でした。当時外部とほぼ交流がなくて孤独だった私に、地元でプレイデイトを探すようにアドバイスをくれました。お医者さんからかかってきた電話になめらかに応えている様子が印象的でした。私は当時まだ電話にはびくびくして、この国で強く生きていけるだろうかと、自分に自信が全く持てなかった時期でした。親だって経済的な面や健康面で制約を受けるし、全部が初体験だし、海外だと特に各家庭状況が全然違うからロールモデルを見つけにくいし、そこにくっついてくるこどもは翻弄されるよね。デイケアから入れる作戦は良いと思います。ただし、アメリカだと田舎or高所得者に限る(泣)
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