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震災1年8ヶ月後の南相馬訪問

※2012年11月20日に南相馬市に訪れて感じた当時のレポートを再編集しています。

南相馬へ、以前お世話になった方を頼って行ってきました。
まず、手渡されたのは分厚い資料。
震災当時の状況をまとめたレポートと、
全国で公演をされているときの
パワーポイントの資料、写真等々・・・
「これから回る場所だけど、帰ってからゆっくり読んでみてね」と。

彼女のお宅は南相馬の小高区にあります。
4月からは「立ち入りはできるけど生活はできない」
区域に指定されているそうで。
地震、津波、原発の三重苦に最近まで何も考えられず
手をつけられなかったけど、
最近になってようやく「人に伝えなければ」と写真を撮り、まとめ、
人が来たらできる限り案内をすることを始められたそうです。

3時間以上に渡り、南相馬の町を案内していただきました。

津波が来た田畑はまだ手付かずでした
地震で崩れた家と津波で流れてきた船
アスファルトも流れてきたそうです


崩れた防波堤、流された鉄骨だけの家屋
アスファルトの上の部分だけが流され、
更地に点在しているところもあったり
「ここまで来れば大丈夫だろうと逃げ込んだが津波が到達してしまった」
という野球場に案内していただいたり・・・

そして・・・
彼女が当時勤めていた施設も見せていただきました。
そこにはもうすでに、骨格しか残っていない大きな施設だけが残っていて、
クレーン車ががれき処理をしていました。

「暖を取ることより、逃げることを優先しておけばよかった」
お話を聞いているうちに涙ぐまれ、私も言葉が詰まりました。
はっきりと質問もできなかったし、お話もされなかったのですが、
間に合わなかった入居者の方がいらっしゃったのは空気で察しました。

20キロ圏内と圏外の復興状況の違いもすぐにわかりました。
20キロ圏内に入ったとたんに崩れたままの家、
集めただけで分別されていないがれき
倒れたままのクレーン車、流されたままの車
草原の真ん中に「あれは2階だけが流された」
という家がそのままになっていたり・・・

居住者のみ日中入れる区域に連れて行ってもらいました
震災前はここから海は見えなかった
ボランティアの受け入れが行われていました
小高駅前の商店街
小学校のグラウンドも雑草が生い茂っていました


「岩手や宮城と違って・・・」「原発さえなければ・・・」
彼女は何度も何度もその言葉を繰り返していました。
行ってみてわかったのですが、南相馬の海岸線はずっと平地で、
逃げ場がありませんでした。
「ここは釜石や大船渡と違って今まで大きな津波が
来た経験がないから避難訓練もあまりしてこなかったし、
高台の避難場所の設置もしてこなかった
というお話の通り高台も少なく、
全部飲み込まれたのが容易に想像できました。

防波堤も防波林もない今、「本当はここから海は見えなかった」
という場所からも
穏やかで美しい海が見えていました。

彼女の家にも案内してもらいました。増築したてのきれいで大きな家。
「ここでばあちゃん世代、私たち、子ども達、孫達が一緒に暮らしていた。
いつも誰かの声がして、いつも『ただいま』『おかえり』の声が響いていた・・・」

今、どこでどのように生活をされているのかは
あまり詳しくは聞けませんでしたが
「家もキレイに残っているのに、戻れないのは悔しい」と
「でも、家が流された人もいるからそれと比べると・・・」とも。
近くの公民館にあった線量計は1.90マイクロシーベルトを
表示していました。
「小さな子どもは連れてこさせられない」

公民館にあった線量計

思い出深い場所や二度と見たくない場所もあったかもしれません。あれから1年8ヶ月の間に色々な葛藤もあったと思います。
でも、彼女は明るく元気に「伝えなければ、見てもらわなければ」とこれまで多くの人を案内して来たそうです。そんな思いを無駄にしたくはないし、このまま私の中にとどめておくことはできない。
だから、私が今日見聞きしたことを多くの人たちに知ってもらわなければいけないと思いました。
長文お読みいただきありがとうございました。

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