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Welcome to Our Living Roomのこと

2020/10/22 13:17

 私がコロナ禍の自粛期間中にボブ・ディランにはまった話は以前ここに書きましたが、もうひとつ、音楽の開眼がありました。それは、小曽根真さんのジャズピアノです。



 思えば、4月の半ばごろ、当初は2、3週間だろうとタカをくくっていたロックダウンが2週間おきに延長され、イベントが次から次へとキャンセルになり、今まで味わったことのないような閉塞感と不安が心の中に垂れ込めていました。そんな折、小曽根真さんが毎晩Facebookで無料でライブを配信されていると友人から告知がありました。



 小曽根さんのことは、もちろん世界的なジャズピアニストだという認識はありましたが、ジャズはどうも、いまいち良さが分からない自分の未熟さを思い知らされるようで、敬遠していたのです。それから、ピアノ。身体も顔も、客席から側面しか見えないピアノのリサイタルは、どちらかというとあまり好物ではありませんでした。でも、どうせ犬に起こされて毎朝6時前には起きているので、途中からなら間に合います。ライブが終わってもアーカイブにビデオが残るので、朝の身支度をしながら聴いてみました。



 目が覚めました。



 なんという明るさとエネルギーと包容力。つい踊ってしまったり、つい「ックーッ!かっこいい!」と声が出てしまったり、つい涙が溢れてしまったり……。楽しくて、一時間があっという間に過ぎました。この時間が待ちきれず、翌朝から犬に起こされる前に起きるようになりました。



 ライブは、小曽根さんの奥様であり女優の神野三鈴さんとのトークを交えて進行されます。三鈴さんが視聴者のコメントを随時チェックされて、リクエスト曲を小曽根さんに伝えます。そのやりとりがまたユーモラスで小気味良く、回数を重ねる度に、まさにライブ名『Welcome to Our Living Room(リビングルームへようこそ)』の通り、仲間の家に毎晩集ってるような楽しさでした。



 プログラムは即興で決まりますが、Welcome to Our Living Room には、ある定型がありました。それは、毎回、コロナの治療や研究に携わっている医療従事者の方への感謝の意で始まることと、中盤で様々なアレンジのバースデーソングを歌うことでした。これがあることで、このライブはただの娯楽ではなくコロナ収束への祈りであることを思わせ、何千人もの人と心をひとつにして祈っているかのような安心感と希望に包まれるのでした。この気持ちはまるで、暗闇に灯りがともったかのようでした。



 ライブは4月半ばから5月末まで、実に53夜も連続で行われました。家族4人が朝から晩まで顔を突き合わせて、一にも二にも忍耐の毎日。どことなくギスギスしがちだった私が家族に優しくなれたのは、一重にこのライブのおかげでした。

 

 良いものは、分け合います!



 日本の母が、やはり戸惑いと孤独と退屈の中、塞ぎがちになっていました。78年間、人一倍エネルギッシュに突っ走ってきて、突然人に会わなくなり、痴呆症になったりしないか気がかりでした。毎日電話はしますが、なんせお互い外へ出ず誰とも会わないので、これといって話題がありません。それが、小曽根さんのライブを聴くようになってからは、どことなく表情に明るさが戻り、「昨日のあの曲良かったね」なんて感想を言い合うのも、楽しみのひとつとなりました。



 その母が、ある日のライブで号泣したというのです。それは、日本では平原綾香さんの歌で親しまれている、ホルストのジュピターでした。



 「あれを聴きながら、自分が天国への階段を登っていくところを思い描いていたのよ。私が死んだら、この曲で送ってね」



 自分が死ぬところを思って号泣するのが前向きかどうかは分かりませんが、涙を流すことは、間違いなく心の浄化作用です。2ヶ月間、小曽根さんのピアノを楽しみに過ごしたこと、母と音楽の話ができたことは、一生忘れないと思います。そして、音楽が生活に欠かせないものであることをこの時に確認できたことを、けして忘れません。



 ライブ配信が5月末に終わってからも、私は毎朝同じ時間にアーカイブのビデオを聴き続けていました。そのアーカイブも、8月末で閉じられるとの告知……。折しも、息子が他州の大学に戻った矢先でした。はからずも、巣立つ前よりずっと密な時間を過ごすことになったこの半年間、3年間でなし得たはずの子離れが、またリバウンドしてしまったような寂しさに駆られていた時でした。これはダブルショック。



 Welcome to Our Living Roomのビデオがひとつひとつ削除されていくのを見ながら、「前へ進みましょう!」と小曽根さん夫妻に背中を押されているような気がしたのでした。



 小曽根さん、三鈴さん、ありがとうございました。

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