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学びのトンネルに灯りを 01

 「学力」について論じる際、電子機器にまつわる語彙をレトリックとして用いることがあります。口さがない人は、“OS”や“CPU”などPC周辺の用語で生徒の能力=“スペック”の高低をたとえたりする人もいます。――それはさておき、知識を記憶し定着させることを「入力」、問に対して言語で答えることを「出力」などという表現は、さほど抵抗感なく用いているような気がします。端的でわかりやすく、学習者のウイークポイントを指摘する際に便利です。しかし、言葉を単純化すると、その際に言語化されず切り落とされてしまう部分が必ずあります。その部分は認識の対象から外れ、外れていることすら意識されない「空白領域」となってしまいます。
 しかし、知識を取り入れ、目的や条件を理解し、断片を拾いあつめてつなげ、意味のある一まとまりの“システム”として言語を構築し、表現するという一連の知的活動は、まさしく「ひとつらなり」であって、そのプロセスを截然と「入力」「出力」と分けるのは少し乱暴な気がします。こうした「明瞭だけど雑な」処理が、学習者自身の学びに対する「なにがわからないかわからない」を生んでしまっている気がします。これが「トンネル」です。まっ暗で照明も灯らない、ぽっかりと空いた、どこまで続くかもわからないトンネルです。入り口の標識、出口の看板はあっても、闇夜のトンネルを導く灯火が適切に置かれなければ、そもそもトンネルをくぐろうとする人はいません。指導者がやるべきことは、「この車に乗ってこのルートを通ってトンネルを抜ければ目的地まで最短でたどり着けるよ」と、ナビゲーションすることではなく(そんなコンテンツはYouTubeにごまんとある)、一人一人のトンネルの中を点検し、灯りを灯し、どれくらいの長さがあって、どんな高低差、曲がりくねりがあるのかを伝え、どうやって抜けきるのかを明らかにすることだと思うのです。学習に課題を抱えている人は、「この車に乗ってこのルートを通って・・・」と教えられても、そもそもその車を乗りこなす能力・技術がなく、なぜそのルートを通るのかの判断理由もわからず、そして闇が怖くてトンネルの中で立ち往生してしまうのです。そんな悩みを抱えている人が「この車に乗って最短で行けばいいよ!」と言われても、できない自分の情けなさにうちひしがれるばかりです。

 「国語」における指導実践をふまえて、トンネルに灯りをともすとは何をどうすることなのかを考えて行きたいと思います。(02につづく)

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