友人の訃報を聞いた
友人の訃報を聞いた。
嘘だと思った。
それは仕事終わりにLINEを開いたとき。
LINEで人の死って知らせてくれるものなのか。
現実感の無いメッセージの羅列に、鈍重な何かを感じた。
そこには「友人が亡くなった」という事実と、葬儀の日程・場所だけが記載されていた。
伝えてくれた友人も、死因など詳しいことは知らされておらず、
「聞く気にもなれなかった」と言っていた。
それもそうだ、と思った。
死因が分かれば多少心の整理も付くと思ったが、分かったところで、とも思う。
悲しい、ということは、まあそう感じているのだろうが、
あまりに唐突すぎて現実感がない、という方が正しい。
嘘であってくれという気持ちが拭えないまま、日々の生活をまた送らねばならない。
何度もメッセージを見返した。
もちろん、LINEを見返すだけで事実が変わることはない。
なんならそれが事実であることがより確定していく。
それが苦しい。
通夜に向けて予定を整理したり、会社に休みの連絡をしなければならないが、そんなことをしたくない。
もっと、それを確定させてしまうから。
子供が駄々をこねるように、そんな自分にとって都合の悪いハナシは聞きたくない、という機構が働いているのかもしれない。
人の死が、日常に溶けてゆくということ。
死を認めた、受け入れたということ。
そうなってしまうともう、本当のお別れになってしまいそうで。
非常に嫌だ。
全然整理がつかない。つく見込みがない。
つけたくない気持ち、の方が正確な述懐かもしれない。
友人が通話で話を聞いてくれた。少しあれで楽になった。
その友人は、自分よりもっと故人と仲が良かった。
なんなら死ぬ10日前ぐらいに、2人で飲んでいたらしい。
もっと現実感がないことだろう。一番受け入れられていないのはその友人だろう。
一番、悲しいだろう。
親友と死別する。
そんなこと自分の人生で起きてほしいと思う人などいない。
友人とは馬鹿な話をして盛り上がる、そんな軽い雰囲気の交友であった。
こんなシリアスな、ショッキングな、そういうのはいらないと思っていた。
3人でよく旅行にも行った。学生時代も、働きだしてからも。
自分の目線からすると、3人の仲というものの、1/3を失ったのである。
喪失感、というやつだろうか。
別にその「喪失」があっても、また日常生活が、そのまま変わらぬ様相で続く、その様もなんだか腹立たしい気がする。
チック・コリアのReturn to Foreverを聴いている。
亡くなった友人が、ジャズに詳しくない中気に入ってくれたのがチックだった。
チック・コリアは2021年にこの世を去った。
別に友人が後を追った、なんて言いたいわけではない。(死因もまだ知らされていない)
ただチックと彼に共通して言えるのは
「まだ会えると思っていた」ということだけ。
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