スポーツの話

一日一膳

最近はあまり食べなくなってきた。1日1食ぐらい。
忙しすぎて食欲が湧かない。それに加えて、食べすぎた時の体の不調が昔より顕著になってきた。

だから、無理して飯を胃に詰め込むという仕打ちはやめてみることにした。別にダイエットをしてるわけではない。ただ自分の健康にはちょっとは気を使うようになった。昔から不健康だし、太ってもいた。というか、今も太ってはいる。ついこの前まで体重も90kg以上あった。最近は1日1食になって勝手に体重が4,5kg落ちたけれど、それはそれで乱高下されても困る。

こうも食べてないことを説明すると、心配する人もいるかもしれない。栄養足りてるのかとか、お腹空かないのかとか、疑問も湧くことだろう。いや、別に人の腹具合に興味ないか。
結論大丈夫だ。摂りすぎた栄養がこうして腹に巻きついているわけなのだから、多少食わなくったって死にはしない。今までが超過しすぎていた分を元に戻しているだけなのだ。それにお腹が空いたらそのときは食べる。幸にして食欲が自律神経から独り歩きしたりしていないので、多少意のままにやっても特に問題は起きない。今のところは。それよりも今まで「1日3食、この時間だから」と思って食っていたことの方が変だったなと思う。

自分のパートナーとしての身体

最近は色々な要因で、自分の身体のことを意識するようになった。健康診断などで色々と注文がつくこともそうだが、あまりにデスクワークが続くと容易に身体を壊すし、自分で積極的にケアしないと追いつかないとわかったからだ。わかった身体。

わからん。何もわからんのだ。今までスポーツも得意ではなかったし、体育というものが基本的に嫌いだった。その経緯はそこらへんの小汚い男共と何ら変わらないから省くとして、体を動かすことには抵抗があった。物理的にも。心理的にも。

だけれど、人生というのは己が肉体で歩んでいくわけである。自分の身体のことを自分が知らないでどうする、とも思うようになったのだ。大きな成長である。とても偉い。

そう考えてみると、自分の健康への意識の高まりは、結局は知的好奇心によるものということだ。健康な方がいいというよりも、どうすれば身体が変わるのか、そっちの方が興味があるんだろう。変わるなら悪い方より良い方が好い。

岡田斗司夫もそんなことを言っていた。世にあるダイエットというものはどれもそれなりに正しい。ダイエットはゲームであり、その時楽しいと思う方法でやるのが一番効果がある。結局何かを攻略していく知的な楽しさがあれば、それが結局成功につながるのだと。

そんなだからウォーターサーバを契約して水をたくさん飲んでいるし、noshの冷凍弁当で少しでも健康には気を使い、エレベータではなく階段を使うようにもしている。たったそれだけのことでも、前より身体を使うように意識してやれば、意外と動くことがわかる。

動くようになる、ということが面白い。fit boxing2というゲームを去年ぐらいからやり始めたが、あれもやり始めがキツい。最初の3日だ。ほんとに最初の3日だけ筋肉痛で全身が笑ってしまう。でもそのあとそんな筋肉痛なんて無かったかのようにすっかり忘れてしまう。その程度の運動の量でも、やり始めはキツいのだ。苦しみ乗り越えて強くなった、という成長結果が好きなのではなく、「身体が変化する」ことそのものが面白いと感じる。そんな偏屈な興味でやっているのが、俺という偏屈な生き物だ。岡田斗司夫と同様、飽きればまた太ってしまうかもしれない。それはそれでいい、人生は成り行きだ。

スポーツはdisportだ

スポーツの語源はdisport、すなわち「気晴らし」だというのは有名な話。だと俺が勝手に思っている。元々は身体を使って運動で競い合うというのは、ただの気晴らしだった。人間の身体性に対する姿勢はそんなもんでいいんじゃないかとふと思う。

本気でオリンピックを目指す、世界一を獲るだとか、暴漢に遭っても身を守れるようにとか、ビジネスで勝ち残るためにとか、モテるためにとか。必死になってスポーツをするのも結構なことだし、尊敬ものだ。

その一方で、身体というパートナーとの目的意識のない「余興」が人生にあってもいいんじゃないか。俺のような体育ヒエラルキーの下層の人間も、身体を動かすのは楽しいことだってある。この楽しさは非常にプリミティヴな何かだ。お金を稼ぐための思考回路とは全然別な部分が働く機構に見える。ゼンマイや歯車の入り組んだ精緻な造作ではなく、粘土を手でこねるような、そんな非常に柔らかい印象を受ける。スポーツで気を晴らす、というのは間違っていない。

もっと自分を知りたい。自己愛の過剰な人間ほど自分を知らない。自分をどんどん深掘ることで、自分を自分として世に出せる。自分の声を伝えることができる。そんなことをしたいのか。したい。自分は自分の言葉をずっと放ち続けることでしか生きられない。だから余興をして手繰り寄せて生きていきたいのだ。身体のせいでくたばってられない。

書くという身体性

こうしてものを書き連ねることも余興的な側面が強い。これでどうやって金を稼ごうとか名誉を得ようとか、そんなものではない。一度「物を書く仕事」というものを真面目にググってみたことがある。真面目を押し付けられたのに雑多なキュレーションしか持ち合わせていない検索エンジンの側にも立ってみてくれという話ではあるが、それでも物書きなんてものはロクに食えない代表格な仕事だった。

俺は書きたい。言葉を並べたい。そこには食欲に似た近視眼的な渇望があったり、スポーツのような「行為そのものへのプリミティブな興味」があったりする。書くということにも身体性がある気がする。打算的で戦略的なルーティングが物書きに見出せないのは、原理的に土台無理があったからだろう。

書くしか無いのだ。当て所なく書くしか無いのだ。

そして後で俺がそれを見てほくそ笑んだり、恥ずかしさで眩暈がしたりするだけ。それでもって物書きなんだろうと思う。


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