SNSの”ない”生活。

SNS…とタイトルではぼかしましたが、実際はTwitterの話です。
もともとSNS疲れをしやすい性格だと自覚していますが、ここ最近もアカウントを削除していました。

削除した直後は、色んな人のツイートが見れないことが寂しかったり、情報が思うように手に入らなくて不便な思いをしたりしましたが、しばらく経つと良いこともあると気づきました。
まず、Twitterを見るために使っていた時間が空いたので、それまでスタックしがちだった他のことが捗るようになりました。家計簿をつける、積読を消化する、こうして「note」に書く、といったこと。
あとは、寝る直前までスマートフォンを見るのをやめたからか、寝つきが良くなった気がします。以前までは、深夜0時頃に就寝したら、時折3時~4時に中途覚醒していたのですが、朝までぶっ通しで寝られるようになりました。他要因のストレスが減ったことなども影響していると思うのですが、ブルーライトの見過ぎってよろしくないんだろうなー、と感じている次第です。

ただ、情報を追えないことが日常生活に支障をきたす場面もあったので、情報閲覧用のアカウントをもうけました。
そうするとやっぱり、見る頻度が増えちゃうんですよね。タイムラインだけじゃなくて、おすすめアカウントのツイートとか、気になったトレンド欄ワードの検索結果とか見てしまいます。我々は他者との関わりの中で生きているので、やっぱり他者のことが気になる気持ちは無くせないのだと痛感しました。
一方で、他者からの情報が無いことで、時間の流れが穏やかに感じられて拍子抜けしていたときもあったので、適度に見る分には良いと思います。ダイエットするときに炭水化物を抜きすぎるとボーっとしちゃうから、適度な量は摂取する、みたいな。

それでも、今回は以前と比べて、Twitterと距離を置けているように感じます。
冒頭で申し上げた通り、もともとSNS疲れをしやすい性格なので、過去にも何回かアカウントを削除したことがありました。しかし、みんなのツイートが見たい…みたいな気持ちが勝って、大体1~2週間ぐらいでアカウントを復活させていました。
しかし、今回はアカウント復活に対する気持ちがその時に比べて緩やかな気がしています。何故なのか、我ながら不思議に思います。アカウントを削除しているメリットが大きいからとは言っても、先に述べた「時間ができる」「寝つきがよくなる」だけなのだろうか?

そんな風に思っていたところに、ある気づきがありました。
先日、とあるアーティストのライブに行ったときのことです。開演10分ぐらい前に会場に到着。ライブ開始時刻が書かれた紙や、他アーティストから届いたお花などをパシャパシャと撮りながら客席へと向かいます。
席に座って、開始時刻までの僅かな時間を何するわけでもなく待機。ほどなくして場内が暗くなり、ライブが始まりました。次々と披露されていく楽曲たち。ステージ上のメンバーと一緒に振り付けをしたり、そうでなくても腕を振り上げたり跳び跳ねたり。音に乗って身体を揺らしていると、あれよあれよと時間が過ぎていきます。

ふと、我に返って“あること”に気づきました。

“なんか、Twitterやっていなかった頃よりもライブを純粋に楽しめている気がする…。”

音楽ライブに対するもろもろの制限が見直され、声出しも復活して以前のような盛り上がりを取り戻していることも一因かと思いますが、Twitterで“ライブの感想”を呟いていた頃よりも、ありのままの自分で今この時間を楽しめている気がしたのです。
もとはと言えば、Twitterで多くの方と知り合えたきっかけのひとつとして、好きなアーティストのライブレポを書いていたことが挙げられると思っています。自分の気持ちに共感の「いいね」やコメントを貰えたりしたことが嬉しかった。そして、そのことがきっかけで色んな人との関わりも生まれました。
ただ、徐々に「いま感じたことをツイート化するならどうなる?」みたいに、はじめから感想をツイートすることありきでライブを観てしまうことが多くなったのも事実です。まるで、ライブレポを書く“仕事で”この場に来ているかのよう。
入場時に撮ったライブ開始時刻の紙やお花の写真も、もしそんな気持ちで来ていたなら、後でTwitterにアップロードすることありきでアングルなどにもこだわって、時間をかけて撮っていたんでしょうね。

ここまで書いたのは、自分が「発信すること」が無くなって気づいたことですが、自分が他の人のツイートを「受け取ること」が無くなって気づいたこともありました。
それは“他者と自分を比較しなくなった”こと。
ライブのある日は、自分以外の方々が開演前に見聞きしたこと、“フォロワーさんと会いました~”みたいな報告、ライブ終演後の感想…といったツイートで溢れるのですが、見ていくうちに自ずと自分の行動や心情と比較してしまって、『自分の行動や心情は大したことないな』と感じてしまったことを改めて思いました。
自分は、開演前は喫茶店でボーっとしていて特にこれといった出来事は無かったし、特に誰とも会わなかったし、ここまで熱の入った感想なんて書けないし、現にここまでのことを思えてもいないし…みたいな具合です。何も知らずに過ごしていたなら、普通に「楽しかった」「良かった」と思えていたのに、“他人の行動や心情が見えすぎる”ことで、“本当に楽しかったのか…?”とか、“これで良かったのか…?”と思えてしまう。
自分も、最初は他の人たちの想いに共感したくてTwitterを始めましたが、そうした想いが“見えすぎる”ことや“解ろうとしすぎる”ことも、きっと考えものなんだろうな~と感じました。

そんな風に、知らず知らずのうちに自分に与えていた「プレッシャー」や「他者との比較」から解放されたからこそ、心の底からライブを楽しめたのだと思います。
きっと、ライブを観るときに限らず、日常生活の様々な場面でこうしたプレッシャーや他者との比較があることで感じていた生きづらさがあったのかなと思います。正確に言うと、こうしたことをプレッシャー“だと感じたり”、他者との比較を“無理矢理”したりしている自分自身によって生み出されているもの。そうしないと、自分の行動や心情に自信を持てない。そういう弱さがあるのだと思います。
心の底から純粋に思ったことを書ける人たちのこと。そもそも“自分が心の底から純粋に思ったこと”に気づける人たちのこと。皮肉っぽく聞こえてしまうかもしれないのですが、本当に羨ましいなと思っています。

そんなこんなでお話ししてきました、SNSの“ない”生活のこと。
アカウントを削除して、プレッシャーや他者との比較から解放された生活。良いことも色々ありますが、自分は皆さんにはオススメできないです。なぜなら、ある日皆さんのアカウントが突然消えた時に自分がめちゃくちゃ心配するからです(笑)
…これもかねがね思っていることですが、このテの気分転換のために海や山とかに行くのはよくある話だなと思えるのに、SNSのアカウントを削除するという手段はとりわけ深刻に考えちゃうのは何故なんでしょうね?
まるで、その人がもうこの世からいなくなってしまったぐらいに感じられるのですが。

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