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最後の間食

わたしの実家で、母方の祖父母は一代限り、米屋を営んでおりまして、わたしが子供の頃は、土間で大きな時代遅れの精米機がまだ動いているのと、店のなかで天井まで充満するぬかの匂い、独特の粉っぽさを覚えております。あいにく実家の住所は商店街から離れていまして、客らしい客は来ず、お得意さんから注文があったときは、厚い紙袋に包まれた精米を、背丈の低い祖母が大人用の三輪車をのろのろ漕ぎながら配達していました。商売としては半分暖簾を下ろしているのが子供の目線からでさえわかりました。
米屋の店主は祖父だったはずですが、わたしは祖父が自転車を漕ぐどころか、働いている姿を見たことがありません。店のなかで大抵、祖父は、土間の座椅子で日向ぼっこしながら新聞を広げているのでした。家のなかではとても寡黙な人で、「うん」とか「ああ」とか、要所でもちろん返事はするんですけど、わたしには会話した記憶が欠落しています。一般に家族なら当然に耳にしたことがあるはずの、怒鳴り声、笑い声といった日常の音を鮮明に思いだすこともできない。太平洋戦争で満洲に出征していたはずですが、饒舌だった祖母とは反対に、家族の前で昔話を語ったこともありません。祖父自ら、自分の意思で「何か」を話すことが、人生の最後に訪れました。
祖父はわたしが十四歳だったとき、冬の真夜中に自宅で倒れ、入院先であっけなく亡くなりました。十二月二十四日のことです。病床の祖父を父、母、叔母たちと見舞ったとき、驚いたのは、どこに力を蓄えていたのか、寝ながら脚で暴力を家族に振るってきたことで、触るな、という感じで無言で家族を蹴るんですね。火事場の馬鹿力ってやつでしょうか。当時認知症が進行していたことは十分考えられますが、先行き不明な状況で仰向けで全身を視線に曝されることに十分屈辱の感情もあったでしょう。なぜそれがわかるのかというと、孫のわたしを前にすると、家に居たときの寡黙さを思いだしたように、急に大人しく、しをらしくなったからです。——死を前にした人の恥。そして祖父は、寝泊りで付き添いする祖母に対して、甘いものが食べたい、甘いものが食べたいと駄々をこねていました。一体に祖母がたまに家で作る料理と言えば、白玉、おはぎ、黒豆、田作りと、甘いものばかりでした。感情を露わにする赤裸々な人間が甘さを求めるのは、ただ単に弱っているからだと、十代のわたしは漠然と考えていました。
サラリーマン勤めだったわたしの父は、コロナ禍の直前、大学病院で亡くなりました。そのときはわたしも付き添いで二日だけですが、看病しました。看病といっても、基本的に同じ病室に「居る」だけです。口をゆすぐのを手伝ったり、硬く冷たくなった肌をマッサージしたり。世間話できるくらい小康状態のときは、外の様子を伝えてあげたり、今日のニュースを教えてあげます。
父は、晩年の祖父の姿を余程反省していたのか、見舞いに来る親族を前にあくまで毅然と振舞おうしました。赤裸々になることを耐えているようにみえました。たとえば、痛みを和らげる薬があっても、副作用で意識が朦朧とするものであれば、投与を拒むのです。
病室というのは、訪問者は飲食禁止です。そもそも、瘦せ衰え、憔悴している人を傍らに、何か好きなものを食べたい、飲みたいという欲望はあまり起こるものではない。でも、父はわたしが水を飲まないこと、食事を摂らないことをしょっちゅう心配してきました。「絶食」に近い入院者の横で、客として「供食」の許しに応じるべきだったでしょうか。しかし、わたしはできなかった。消灯を待って、そっと父のいる病室から抜けだし、大学病院のなかのコンビニエンスストアに行きました。すると抑圧された食欲が爆発する。病人を部屋に残してきた罪悪感とともに、飢餓感が復活するのです。
朝か昼か、明るくなって、かき氷が食べたいと父は言ってきました。秋でした、九月のことです。やはり甘いものになるのか、とわたしは思いました。かき氷、それもいちごのかき氷。いちご味でもいちご色でもない、ピンクのシロップのかき氷。わたしは父が食べたいものが分かりました。山口県民や北九州の人間ならよく知っている、夏ならどこでも売っている袋入りの安いピンクのかき氷です。子供の頃は五〇円くらいだったでしょうか。外へ出かけましたが、やはりコンビニで少し値の張るカップ入りの「スイーツ」のかき氷しか病室へ持って帰れませんでした。私の手の持つスプーンで一口、二口だけ含んで、終わり。力を使い切ってしまったのか、満足したのか、そのどちらにも見えました。そのまま、氷は、病室の小さな冷蔵庫で時間をかけてただの甘い水になったことでしょう。

ここでは引用する間がありませんが、ボードレールの「秋の歌」という詩を思いだしながら、話を終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

註*2023年12月30日、高円寺Fourth Floor IIで行われた「謳わず語れ」のために執筆。演者は楽器等で音の出るパフォーマンスは原則的に禁止され、持ち時間五分で「語る」。ルールを変えず、2007年から続くイベント。エントリーは一生で一度しかできない(ということを、わたしは当日知った)。

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