「悪人以外を生き返らせる」グロテスクな願い:創作のための戦訓講義06

事例概要

仮面ライダーギーツ

※『仮面ライダーギーツ』では勝者が女神に願いを叶えてもらい理想の世界を作ることができるというデスゲームを物語の軸としている。2号ライダー、タイクーンこと桜井景和はそのゲームで犠牲になったすべての人間をよみがえらせるよう女神に要求する。

※しかし世界が作り変えられた後、生き返った両親と姉は、再会する前に死亡してしまう。原因は景和がよみがえらせたゲームの犠牲者の中に暴力的な仮面ライダーが混じっており、彼らがライダーの力で暴れまわったためだという。

ドラゴンボール

※こうした物語展開に対し、『ドラゴンボール』でベジータが生き返らせる人間を選定したことを思い出す人が多かったようだ。


解説

運営の横槍

 『仮面ライダーギーツ』は命懸けのデスゲーム『デザイアグランプリ(以下DGP)』を戦い、優勝したライダーが自身の願いを叶えられる世界観。例えば何度もDGPを優勝している主役ライダー、ギーツこと浮世英寿うきよえいすは「自身がスターになっている世界」から「DGPに何度も参加できる世界」、果ては「DGPの運営と家族になっている世界」まで叶えている。

 DGPの報酬として叶えられる願いはデザイアカードという色紙に書いたものが採用される。叶えられないものはカードに書けないというルールがあり、実際「母親に会う」という願いを英寿はカードに書いたが、それは消されてしまう。創世の女神自身がカードに介入しているのか、運営が拒絶しているのかは定かではないが、物語の展開的に英寿と女神の関係を運営も把握していなかったようなので前者かもしれない。

 ともかくカードに書かれる願いは端的であるため、ある程度の補完が行われている。例えば英寿の願いである「常にDGPに参加できる」は、英寿が何度もゲームに参加し何度も願いを叶えて運営に近づくための作戦だったが、運営の策略で一度ゲームオーバーになった状態から願いを利用して復活している。

 ところが願いを叶えるための存在、創世の女神は運営の管理下にあるためヴィジョンドライバー経由で介入することが可能。これにより運営はスポンサーにしたい人間の願いを叶えることで勧誘したりもした。その結果生まれたのが鞍馬祢音でもある。そして桜井景和の願いを叶えた運営だったが、景和の願いを受け女神の力を発動したツムリに対し運営は介入し、最悪の結果をあえてもたらした。

浅慮ではなく

 桜井景和は元々「DGPで犠牲になった人たちの復活」を願いとしており、今回それを叶えることとなった。確かに景和が見てきたライダーや犠牲者たちはそのほとんどが善人だったため、悪人復活のリスクをあまり想定していなかったという側面はあっただろう。だが願いを叶えて世界を再構築してすぐ、家族が復活したライダーの暴走に巻き込まれて死亡する展開は景和の責任ではない。

 そもそもDGPに参加したライダーのゲームオーバーは二種類。ジャマトまたは敵ライダーに倒された場合は死亡し、ジャマト農園に送られジャマト作成の肥料となる。その結果生まれたのがシローや道長の友人を模倣したジャマトであり、道長は送られながら息を吹き返しジャマトグランプリの展開へ派生する。

 もう一種のゲームオーバーがリタイア。DGPはゲーム形式としてはPVPVE、つまりプレイヤー同士の戦いにNPCであるジャマトが介在する形式をとる。その中であくまでプレイヤーであるライダー同士の競争はスコアアタック形式で行われているため、死亡以外にスコア最下位などの条件によってリタイアさせられる。この場合は死亡していないため記憶を失って元の生活に戻るだけで、次のDGPで再び参戦することもある。道長死亡後のロポやナッジスパロウ初参戦回であるデザスター編、乖離編が分かりやすい例だ。

 そして死亡せずリタイアしたライダーはDGPに関する記憶と、DGPで叶えようとした願いに関する記憶や欲望を忘れるという特性がある。そのため一度離脱した景和は再登場時、世界平和を願う気持ちをなくし宝くじを引いていた。記憶を思い出すには誰かのコアIDに触れる必要がある。これはライダーに限らず、巻き込まれた一般人も同様で、世界が作り変えられる際にDGPに関する記憶は失われている。

 つまりDGPの本来のルールとしては、景和が想定した犠牲者の復活はDGPの記憶をなくした状態だったはずである。そこに運営が介入し、復活時に変身アイテム一式を持たせたことでDGPの記憶を取り戻した状態で復活し、暴走して景和の家族を殺害することとなった。根本的に、「願いを叶えたが再構成された世界で景和の家族が死ぬ」という展開自体に景和の責任はなく、この事態は景和を利用したい運営がそうなるよう誘導しているのである。

悪人って誰?

 さらなる問題は、仮に「悪人以外を蘇らせろ」と要求したとして、その悪人は一体誰がどういう基準で判断するのか、という点である。

 これに関しては、ドラゴンボールはさておきギーツなら願いを叶えた人間の思想が基準になるのだろうと想像できる。例えば景和が「悪人以外を蘇らせろ」と要求すれば、ここで選別される「悪人」は景和の想定する者になるはずだ。創世の女神に意思はなく、そもそも景和の想定と思惑から外れる動機も基本的にはないからだ。

 ここで問題視されるのは、「悪人以外を蘇らせろ」という願いそのものではなく、「悪人以外を蘇らせろと願うべきだったよね」とマジで思っているヤベー連中である。これがまともな意見扱いされているのはだいぶ……。

 悪人とは誰かという選定をすること自体がひどく暴力的なのは言うまでもない。まあそれ自体は選別する責任を神龍なり女神なり願いを叶える装置に転嫁することもできるし、「俺はゲームで勝ったんだからこれくらい要求して当然!」と居直ることも可能だ。少なくともギーツ世界においては、どんな願いであれその願いのために命懸けで戦う者は尊重される。ただし、いくら居直っても「自分基準で選別した悪人を生き返らせない世界」を作る引き金を引くのは自分自身だが。

 その上でこうした配慮も特に、今回の意見を賛同する人たちにはまったくなさそうなのがなかなかグロテスクだ。居直るも責任転嫁もない。なぜなら問題の悪性を何も自覚していないから。誰かに責任を押し付けなければならないような事態を自分で引いているという自覚もない。ベジータの願いが素朴に正論と受け取られる世界で生きているのが我々なのである。

 マジで一回作り直した方がいいんじゃないのか?

戦訓

 『ドラゴンボール』におけるベジータの願いの文脈は不明なので言及は控えるが、一見ヤバいだろみたいな意見がさも正論のように扱われ誰も問題を認識できていない、みたいなことは結構ある。オタクは作中で否定される悪人の台詞を正論のように扱ってしまうくらい読解力がないので……。

 ただオタクに限らず、作品には時代的な限界性がある。作品が掲載された時代にはあまり問題視されなかったために、明らかに問題視するべきものがそのまま正しいものとしてなんとなく扱われ続けることもあるだろう。今回のような事例は他山の石とするべきだ。創作者としても鑑賞者としても。

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