三流コンサル田端さん、ルサンチマンが隠せない:創作のための時事問題勉強会37

※注意
 本記事は時事的問題について、後で振り返るためにメディアの取材や周囲の反応を備忘録的にまとめたものです。その性質上、まとめた記事に誤情報や不鮮明な記述が散見される場合があります。閲覧の際にはその点をご留意ください。


事例概要

発端

※以上のように反応。「インボイス制度に反対するのは増税で苦労する脆弱な人たちだけ」というインボイス肯定派お得意の擁護になっていない擁護だが、クリエイターを嘲笑しつつそのクリエイターが作った創作物を攻撃に用いる愚かさを発揮。

田端氏、壊れる

※インプレッション稼ぎの炎上商法だろうと思っていたが、どうやら田端氏的にはもっと根深い問題があるようだ。

個人見解

アートの価値尺度を見誤る

 田端の言い分の分かりやすい誤謬は、アートの価値を資本主義的な経済価値だけで図ろうとしているという点だ。無論、クリエイターやアーティストも人間であり、資本主義社会に生きる以上は何らかの手段で金銭を得なければ生活は成り立たない。そこで自身の創作物を金銭に変換する手段を模索するわけだが、それはアートの価値のすべてが経済価値しか存在しないことを意味しない。

 創作物が生む経済効果は分かりやすいその作品の価値の指標ではあるが、あくまで指標の中のひとつでしかない。これが端的に表れているのが引用した田端の二つ目のツイートで、ラーメン屋は味、歌手は歌の巧拙が価値判断の基準として持ち出されているのに、アーティストとなると途端に経済価値が前面に出てくるといういびつさを発生させている。

 コンサルタントの田端が経済価値に重きを置くこと自体は当然の態度だが、ラーメンや歌は経済価値で推し量られる手前の味や歌唱力が出されるのに、創作物は経済価値に直接変換しているところのいびつさは何なのだろうか。「創作物の価値判断において経済価値は一部でしかないと分かっているが自身の前言と整合性を取るために丸めた」感じがするのだが。

売れるかどうかは無関係

 また田端が見誤っているのは、創作物が金銭に変換される過程で、創作物自身の価値が必ずしも打倒に評価されるとは限らない点だ。そもそもあらゆる経済活動において、その商品の価値がそのまま適切に金銭価値へ変換されているなどと信じる人間はいない。

 もし商品の価値が金銭価値へ等価に変換される世界なら、そもそも田端は給料を得るどころか払わなければ道理が通らないわけだから、自身の存在がそれを証明していると言える。資本主義社会、新自由主義社会における経済価値は、それそのものの有用性を必ずしも示しはしない。

インボイスの負担は本来不要

 さらに田端は、インボイス制度が本来零細クリエイターの負うべきだった負担が免除されており、それを正しく支払わせるだけだと思っているがこれも間違いである。

 そもそも1000万以下の売り上げの零細事業者は消費税が免除されていた。だがインボイス制度によって課税事業者登録をした場合、1000万円以下の売り上げでも消費税の納入が義務付けられる。そして取引先が仕入税額控除を受けるためには、零細事業者は課税事業者登録を余儀なくされる。登録をしなければ消費税分のコストを値引きされるか、取引を打ち切られるかされる。

 ゆえに実質的な増税と言われるわけだ。さらにここへインボイス制度に対応した事務処理が加わるが、この処理はインボイス制度が無ければ発生しない余計ない仕事であるのは間違いない。

 つまり田端の言い分は、ランナーの全身に重りを括り付けておいて、「その重りを引きずりながら走れるのが競技者だろ?」と言っているようなものだ。当然、こんな重りを括り付けて走る競技は存在しない。余計な負担を強いているくせに、その負担に耐えるのが資格と才能であると的外れなことを言っているのだ。

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