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どんぐりおじさん

 あの日からどれくらいの年月が経ったのであろうか、今となってはもう分からない。知らず知らずのうちに長い年月、美しい夢にも似た恐ろしい呪いの中を彷徨い続けていたのかもしれない。そして、それは今も…。

 幼稚園児だった頃、秋になると必ず先生が私たちを幼稚園の近所にある大きな広場に連れて行ってくれて、私たちはそこでどんぐり集めに夢中になった。どんぐりといっても、まんまるで可愛らしいものもあれば、細長くてポークピッツのような形をしたものもあったりと種類は様々で、私たちはその一つ一つにいちいち心を弾ませては、周りの友達がまだ見つけていない新しい種類のどんぐりを探すべく大きな広場を無我夢中で駆け巡った。      
 あの日は雲ひとつなくよく晴れた日だった。やけに空が遠く感じられたのをよく覚えている。私たちさくら組はいつものように広場でどんぐり集めに勤しんでいた。私が必死になってどんぐり集めをしていたのは、純粋に新しい種類のどんぐりを見つけたかったからでもあるが、それ以上に、木村先生に褒めてもらいたかったからというのが大きかった。木村先生とは私の所属していたさくら組の担任の先生であり、年齢は20代中盤くらいで、綺麗に整えられた黒髪のロングヘアが似合う、優しい笑顔が素敵な美しい人だった。私はそんな木村先生のことが大好きで、先程、緑色のどんぐりを見つけてきたクラスメイトの男が木村先生に頭を撫で撫でされながら褒められている姿を見て、私もどうにかして木村先生に頭を撫で撫でされたいと思ったのである。
 とは言っても、新しい種類のどんぐりなんてのはそう簡単に見つけられるものではない。それこそ、みんなと同じような所ばかり探していても見つけられるはずもない。そう考えた私は木村先生の目を盗んで、先生が指定した行動範囲を越えて少し離れたところにある林の中に走って行った。木々の間を通り抜け少し進むと、林の中にポツンと開けた場所があった。少し暗くてどこか寂しげな場所だった。周りに人は誰もいない。気がつくと、さっきまではやかましいくらいに聞こえていたクラスメイトの声がいつの間にか消えていて、風に靡く木々の音ばかりが響く。私は嬉しくなった。ここまで来れば誰も見つけたことがないどんぐりを発見できると思ったのである。が、不思議なことにそこにはどんぐりが一つも落ちていない。目を皿のようにして探したがやっぱり一つも落ちていない。そこで私は急に不安になった。木々の靡く音が心なしかさっきよりも激しくなったように感じる。先ほどまでは、他のクラスメイトが知らない自分だけの秘密の場所を見つけたことによる優越感と、ここならば新しい種類のどんぐりを見つけることができるはずであるという確信からくる喜びが胸いっぱいに広がっていたから気がつくことはなかったのだが、ここにはどんぐりが一つも落ちてないということを知り、それらが霧消すると、今度は一気に胸の内に隠れていた不安や恐怖が私の心を支配し始めたのである。私は今すぐにここを抜け出して先生たちがいる場所に帰らなくてはいけないと思った。が、どういう訳か脚が動かない。叫ぼうとも声が出でない。ただただ恐怖に怯えながらその場に立ちすくむ他なかった。冷や汗が背中の毛穴という毛穴からじんわりと染み出してくるのを感じる。すると、突然林の向こうから足音が聞こえてきた。ゆっくりとした足音だった。どんどんと足音が大きくなっていく。どうやらこちらに向かってくるようである。私は恐怖で気が狂いそうになるのを必死に堪えて、足音のする方をじっと見た。そして、足音がすぐ近くまでやってきて、いよいよだと思うと、悪戯な笑顔を湛えた中年のおじさんが木の影からひょっこり顔を出した。足音の主はこの優しそうなおじさんだったのである。私は見窄らしい格好をしたおじさんを見ると大変ホッとした心待ちになった。そして先ほどまではカチカチだった脚の緊張が一気に抜けてその場に崩れ落ちた。おじさんは私に近づいてくると、
「こんなところで何してんの?」
と尋ねてきた。おじさんの口調が見かけによらず子どもじみたものであることに私は子どもながらに多少の違和感を覚えた。
「どんぐりを探してる」
私は答えた。すると、おじさんの目がたちまち輝き始めた。そして、私の目の前でしゃがむと鼻と鼻がくっつきそうな程顔を寄せてきた。
「そうなんだ!それで面白いどんぐり見つけたの?」
おじさんの目はまん丸でビー玉みたいだった。
「ううん。面白いどんぐりを見つけるためにここまで走ってきたんだけどね、全然見つからなかった」
「へぇ。俺ね、面白い形のどんぐりいっぱいもってるよ!絶対にお前が見たことないやつ!見せてあげようか?」
見ず知らずの大人からお前呼ばわりされたのが初めてだったので多少動揺したのだが、もし、このおじさんから面白い形のどんぐりを貰うことができたのなら、木村先生に沢山褒めて貰えるかもしれないと思うと、最早、おじさんの言葉遣いなどどうでもよくなり、寧ろ、一刻も早く面白い形のどんぐりとやらを見せてもらいたいと思った。そして私はおじさんからどんぐりを貰える確率を少しでも増やすために、戦略としておじさんの機嫌を取るための芝居を打つことにした。
「えっ!面白い形のどんぐりもってるの?凄いなぁ!見せて見せて!」
「あぁ、いいとも!けどね、やっぱり俺の最強コレクションをただじゃ見せられないな」
「えぇ、けど僕なにも持ってないよ?」
「じゃあさ、俺と友達になってよ!もし友達になってくれたら俺のどんぐりあげてもいいよ!」
「分かった!僕、友達になるよ!」
「やった!ありがとう!久しぶりの友達だよ!」
おじさんはピョンピョン飛び跳ねて喜んだ。そして、おじさんはズボンのポケットをごそごそ探ってそこから沢山のどんぐりを取り出した。大きくて分厚い年季のこもった手のひらにはこれまで見たこともないような珍しいどんぐりが沢山ある。黒光りしているものや、栗みたいな形をしたもの、そして、メデューサの頭みたいな帽子を被ったものもあった。
「わぁ!凄い!初めてみるどんぐりばっかり!」
私はおじさんのコレクションの数々に素直に驚嘆した。
「でしょ!ここら辺ではなかなか見つけられないレアなものばっかだよ!」
おじさんは得意げに言った。
「けどね、まだ見つけられてないどんぐりがあるんだ」
「それはどんなどんぐりなの?」
「うん。それはね、水色のどんぐりなんだ。そのどんぐりはパライバトルマリンみたいに水色に美しく輝くんだ」
「水色のどんぐりなんて聞いたことないよ」
「俺も本物を見たことはないんだ。けど、おじさんが言ってたから間違いないよ」
「おじさん?」
「うん、どんぐり博士のおじさん。ちょっと前に、この広場でどんぐりを探していたら、突然おじさんが現れて、俺に水色のどんぐりのことを教えてくれたんだ」
「どんぐり博士なんているの?」
「俺がおじさんのことを勝手にそう呼んでるだけ。おじさんは俺が見たことがないような珍しいどんぐりを沢山持ってたからね。けど、水色のどんぐりだけはやっぱり持ってなかった。おじさんも水色のどんぐりを探してるんだって言ってた。なんでも、おじさんは水色のどんぐりを見つけるって友達と約束したらしいんだ。だから俺にも水色のどんぐりを探すのを手伝って欲しいって」
「へぇ、そのおじさんは今どこにいるの?」
「分からないけど、多分この林のどこかで今もどんぐりを探していると思うよ。」
「そうなんだ。だけど、どうして水色のどんぐりを探しているんだろ?」
「それは俺にも分からない。おじさんに聞いてみたんだけど、おじさんもよく分かってないらしい。けど、やっぱり珍しいどんぐりを探すのってワクワクするだろ。それに俺にはね、もし水色のどんぐりを見つけることができたら、絶対に見せてあげたい人がいるんだ」
「誰?」
「それは内緒だよ。いくら友達でもね」
「なんだよ」
「そうだ、お前も俺と一緒に水色のどんぐりを探すのを手伝ってくれないか?」
おじさんは僕の両肩をガシッと掴み私の目をビー玉のような大きな目で見つめて言った。
「ええ、そんな急に言われても」
「お前にもいるんじゃないのか?水色のどんぐりを見つけたら真っ先に見せてあげたい人が」
そのとき私の脳裏には木村先生の姿が浮かんだ。水色に輝く美しい宝石のようなどんぐりをプレゼントしたら先生はきっと喜んでくれるだろう。あの優しい笑顔で私の頭を撫で撫でしてくれる木村先生の姿がはっきりと想像できる。それだけで私はとても幸せだった。そうだ、そのどんぐりを見つけたら、ネックレスにしてプレゼントするのが良い、先生にきっと似合うはずだ。そうだ、そうしよう。私は自らの栄光の未来を夢想して内心有頂天になった。
「そりゃ、いるけども」
「だったら決まりだな。どっちが先に水色のどんぐりを見つけられるか勝負だ」
そう言うとおじさんは右手を差し出してきたので、私はその分厚くてゴツゴツしたおじさんの手を握り返した。すると、その刹那、急に激しい眩暈が私を襲ってきて視界が歪み始めた。おじさんのビー玉のような大きな目だけがやけにはっきりと見えて、それを中心におじさんの顔の輪郭やら周りの風景やらが円を描くようにして歪み、それらが絵の具のように混じり合っていく。そこで私は気を失った。
 気がつくとそこにおじさんの姿はなかった。そして、先程までいた場所とは全く違う所にいる。知らないはずなのに、不思議と懐かしさを覚える場所。山の頂上だろうか、見晴らしがとても良く、麓には黄金色に輝くススキ畑がどこまでも広がっている。私は訳も分からず辺りを見回したが、この美しい風景の他にあるのは、山頂にポツンと置かれた小さな鳥居と祠だけであった。そして、どこからともなくケラケラと嘲るような品のない笑い声が聞こえてくる。

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