見出し画像

丹沢山塊

         

*    丹沢山塊眺望   
 窓を開けると、鳥が羽をひろげたような形をして南北にひろがっている“丹沢山塊”を眺望できる。南端にどっしりと腰を据えた麗峰大山(雨降山)をはじめ、新大日岳-塔ノ岳・丹沢山・蛭ヶ岳などが連なったやわらかな稜線はいつみてもあきることがない。 我が家から仏果山・石老山が近い。休みにはナップザックを背負い、自転車やバスを利用して登りにでかける。 その仏果山が四季折々の自然な美しさを変貌して魅力を薄めてしまった。春は新芽若葉、秋は紅葉万華の乱舞に酔い、豊かな渓谷美に彩られた仏果山付近の中津渓谷は、宮ケ瀬ダム作られて昔の心癒された自然の美は形を変えてしまった。

*仏果山への登り
   学生の頃、友らと語らい釣り竿を肩に中津川を遡行し、静かな川面に釣り糸を垂れ、鮎・山女魚のまろやかな美味に満悦し、恋に破れ事にゆき悩んでは独り仏果山付近を散策し、失恋の痛みを汗とともに流したり仕事への新たな意欲をとり戻すなど、自らの心を慰めたりしたものだが、今はその面影すら感じることさえできない。
   仏果山の登山口は五か所ある。どのコースをとっても急登の汗かきにはじまるが、一度踏み込んで木々の葉や花々に触れると、またの機会に登り返したく山だ。山頂の展望はあまり期待できない。それでも木々の間から丹沢連峰・道志山系ときには奥多摩の山並みをじっくりと眺望売ることができる。    大山・塔ノ岳の華やかさに比べて、仏果山への道と頂は人っ気がほとんどなく淋しい。丹沢山塊から取り残された山といわれるが、宮ケ瀬ダムが完成し四季の折々のそれなりの自然の趣を彩ることにより、仏果山は手ごろなハイキングコースとしてみなされ始めている。

         

 仏果山の標高は747mとそれ程高くはないが、孤高の経ケ岳山頂(標高633m)を踏みしめ、半原峠を越えて仏果山への長途の登りは風光明媚で、ゆったりした尾根歩きが存分に愉しめる。
 また、中津渓谷を散策しての宮ケ瀬越えも、なだらかで静かな尾根歩きを味わうことができ、それぞれ適当な急登を加えながらの尾根歩きは低山なりの親しみがもてる。
 
*    丹沢山の登り
   いつもそうだったが、丹沢山(標高1567m)への登りは中津渓谷を経て宮ケ瀬-馬場(ばんば)路を歩き、シロヤシオツツジの咲き乱れる尾根を、ときにはカヤトの穂波をかき分け丹沢三峰を越えて行った。セドノ沢の頭ではきまって友を探し餌を求める鹿にあったりもした。また丹沢山は、今は亡き岳友Kとの青春の汗をほとばしらせた頂であり、塔ノ岳へ至る道程でもあった。

*  塔ノ岳への道
   塔ノ岳へ登る日は、伊勢原の駅で新聞や週刊誌などを買って、塔ノ岳の頂上にある尊仏小屋の小屋主の人たちに、下界ニュースを届ける唯一の土産であった。

            

  塔ノ岳から眺める富士山が好きだというKは”俺の富士山“と画紙を開く。いつ見ても富士山に心を惹かれる。岩に腰を下ろして、器を逆さまにしたように裾を東西に大きく広げた端正な富士山を、時を忘れて眺める。塔ノ岳からの日の出も素晴らしい。東方の海上はるか明けの雲海を押し分け、ギラギラと燃え揺らぎながら刻々と昇る太陽に、シャッターを押すのも忘れてしばし見とれてしまう程だ。

       

  塔ノ岳の頂上から湘南の海や大海に張り出すように伸びる三浦半島の夜明けや日暮れは山旅の疲れを癒してもくれる。海のない山育ちのKは、画紙は開かないがしばらくその場に腰を下ろしたまま見つめていることが多かった。Kが亡くなってからも丹沢歩き塔ノ岳の山旅はつづいたが、塔ノ岳から富士山や湘南の海を眺めていると、傍らにKが並んでいるような錯覚にとらわれる。

* 丹沢概観
   丹沢山塊の主峰蛭ヶ岳(標高1673m)から南アルプス・大菩薩連嶺・奥多摩連山など十重二十重に連なる展望に触れると、果てしない自然の綾織る山岳の美観に心奪われ、峰から峰と歩きつづけてきた山旅の疲れなどを忘れてしまう。“蛭”の頂上から真っ青な空の彼方に八ッ岳、ときには北アルプスを眺められたときはしばしその場に立ち尽くしてしまう。
  これらの眺望に浸るわずかな時、重いザックを背負い、息をはずませながら苦しい思いをして登ってきたことなどすっかりわすれて登ってきてよかった山登りをつづけてこられて幸せだという感慨で心和むのは私の独善ろうか

*西丹沢の山旅
  毎年1月になると、判を押したように箒沢を拠点して、檜洞丸(標高1600m)-蛭ヶ岳・大群(室)山(標高1587m)などの西丹沢を徘徊する。
   山頂らアルプス眺望存分に味わい、静かなひとりの山旅をしたいという唯一の時を過ごす愉しみからで、色褪せたザックを背負い体にそぐわない大きな山靴を履き、雪の凍った尾根をアイゼンの音をきしませながら歩く。
   丹沢山塊の”一つの峰ひとつの峠“は味わい尽くせない魅力に富み、一歩踏み込めば木々の芽吹き、苔むした岩々、咲き競う花々に心が魅了され、丹沢通いが病みつきとなってしまうのは私だけだろうか。
   丹沢を遠望すれば、やわらかに眺(み)える稜線も一歩近づけば、一つひとつが急登につぐ急登で嘆息の暇もない厳しさがある。登道は雨によって崩壊しガレ場となり、あるべき道は濃霧に包まれて消えてしまう。
   樹林帯の道は奥深く、初めての登山者には、山に棲む悪魔が一呑みしようと不気味な口を開けて身構えているように見える。しかし、歩きなれた者にとって崩壊した道や濃霧に包まれたブナの原生林帯に、頬ずりしたくなる安らぎを感じる。とりわけ、檜洞丸の尾根はツツジが咲き乱れ、ブナの原生林の山頂のバイケイソウの群生は、ロマンを求める山人の恰好の憩いの場所である。
   丹沢山塊は四季折々に、スミレ・レンゲ・ツツジ・リンドウの花々が咲き、ブナ・楓・桜の豊かな枝葉の色彩と穂波豊かなカヤトの原に装われる。    さらに、自然の輝きはミヤマアゲハ・クロアゲハの蝶を求め、畦ヶ丸から城ヶ尾峠へと誘ってくる。誘われるままに彷徨へば、木々の間を梢から漏れてくる陽を浴びて舞う優美な蝶に心まどい、蝶を追って藪の中を踏み込んでいくたおやかな息づかいにたまらない魅力を覚える。
   私にとって、奥秩父の静寂、南アルプスの雄大さ、北アルプスの繊細さも好きだが、それ以上に“丹沢山塊”の深遠な魅力とたっぷりと情の秘めた山あいに抑え難い愛情を抱く。しかも、それらの感情が幾重にもつのって、やわらかな稜線にまみえる度に”丹沢歩き“を誘引され、じっとしている辛さに耐えかねて、ザックを背負って丹沢に向かっている。
                       記: 中原伸平復刻版
                       写真: 
                         MAMAPタイチさん
                         フオークライブ

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?