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ちずポジションで春田ばりのマジデリカシー人間だった私がOLのリアリティについて思うこと

だーりお並の美貌もスタイルもなければ、ちずちゃんほどの度胸も恋心もない上に、春田並の超鈍感さはあれど、あれだけの愛され要素が全くないということは先に断っておく。

おっさんずラブの最終回には公式に感謝しか浮かばない。その上で、なぜここまでハマった上に、牧くんを全力で応援し、黒澤武蔵部長に感涙するほど、感情移入するに至ったのか思い返してみた。

OLの世界は私にとってリアリティがあった

人によって捉え方が全く異なる世界、それがOLの世界だ。私の周りでも、ファンタジー派もいれば、リアル派もいるし、そのポイントまで細分化すれば多岐に渡る。

随分と以前から、私自身はちずちゃん的ポジションだった。友人のセクシュアリティを最初に知ったのはその人からのカミングアウトだ。別に恋心を持っていたわけじゃないけれど、友人として好意はあったし、浜辺のシーンで春田に牧くんと付き合ったことを報告された時のちずちゃんのように、一瞬真っ白になるくらいは衝撃があった。

忘れもしない、次に私がやったのはなぜか自分のダメなところを連呼するという謎のフォロー。悪いところ10個言えますか!が別な意味でグサグサささる。うんわかる。気にすんなよ、変わんないからって言いたいんだけど、なんだかよくわからなくて自分下げから入ってしまった。下げてる次点でアウトじゃん!ほんと当時の私に(今もだが)マジデリカシーって叱りたい。

OLに対していろんな意見があるのはわかる。本当の当事者達からしたらファンタジーかもしれないし、身の回りに全くLGBTの人がいない人から見てもまたありえないファンタジーなのかもしれない。ただ、私にとっては、既にこの世界はファンタジーではなく、リアル。それはなぜなんだろう。そんなことがふと気になってしまった。

マジョリティ側からマイノリティを見るということ

仰々しくこう言ってるけど、要は単純にヘテロな私がマイノリティの友人というフィルターを通して見た個人の率直な感想だ。

なんでゲイばっかりなの?ありえないでしょといういわゆるBLファンタジーだという指摘には、ケースバイケースによるとしか言えない。

天空不動産においては、私はファンタジーとまでは感じない。社内恋愛していたらその元恋人が出てくるのはおかしくないし、牧くんはゲイなのでそりゃ元恋人も男ですよね、ってなる。通常のヘテロ恋愛だと男、女、男、女と連鎖するので自動的に5分5分になるが、そこに同性愛者が入ってくると一気に偏る。そこにバランスよくしようとか謎の違和感解消に、レズも入れようってなったらそれこそファンタジーだ。

実際、その友人達と遊ぶ時は比率が偏ることは多かった。でもそれは見ている側がフォーカスしていた区切り部分にもあると思う。

ドラマのように切り取りを行って主題を見せるために構築された世界というのは、どちらかと言えば、マジョリティからマイノリティを見た形だ。スポットライトで必要なところに光を当てたあの感じ。一方で本当の当事者から見たら、スポットが当たっていたとしても、見えない客席にただ、だだっ広い、圧倒的多数の「世間一般」が広がっている。

マジョリティから見た時、ステージだけしか見ていないけれど、反対側から見たら、ステージより広い客席も込みで見えている。

ドラマではこの視点を持つのが牧くんであり武川さんだった。

武川さんは大人だ。大人だからこそ恋愛対象を初めから絞っておくという理性の対処をする発想がある。一方で牧くんは、世間のかけらという幻想に傷つけられ続ける。

OLの世界は一見ゲイ率多めのBLファンタジーに見せておいて、見えない「世間という圧倒的多数」の存在を匂わせていた。そういうところが、私には「リアル」だった。

この世間というのは厄介で、かけらはたくさん具現化して転がっているけれど、無限に復活するラスボスのような存在で、性的マイノリティでなくても、苦しめられる人は多いのではないだろうか。

日本人はテンプレ人生に敏感だ。結婚、就職、子供を持つ選択、老後、まるで行き先が決まっているかのような多数派がいて、そこから外れると途端に息苦しく、コンプレックスに苛まされる。

牧くんの苦しみはたまたまセクシュアリティに起因していただけで、実は多くの人にも共通する苦しみだ。

だからこそ、視聴者は牧くんの幸せを願う人で溢れることになった。牧くんはBLヒロインだから応援されたんじゃない。苦しんで苦しんで、それでも愛と向き合った子だから、どんな嗜好の人だって、そこに何か見つけてしまうだろう。

あり得ないことがたくさんあるというリアル

事実は小説より奇なりという。

このドラマはコメディとして、ジェットコースターのようなあり得ないを連発してくれた。コメディとしても秀逸で安心して笑え、笑いきっては、え、なんで私泣いてんの?ってこっちの感情までドドンパ状態。富士急ハイランドに脳内で行けるレベルとか、振り切り感恐ろしい。

春田というキャラクターはマジデリカシーではあるが、ヘテロは往々にしてマジデリカシーなのかもしれないと思う。

噂にしまくるまいまいもデリカシーがあるとはいえない。歌にするわ茶化すわとやかましい鉄平兄はマロにすら「黙ってろ」と言われるレベルのマジデリカシー。そのマロだって、いざ春田のカミングアウトを聞けば、「ワンチャンあるから!」って勘違い慰めを敢行する。そもそもマロは春田の名前すらちゃんと覚えてなかった。マジデリカシー。

気が回ると思われるかっこいいちずちゃんも、すっきりしたいという理由で、自分が最強の「異性」という強みを持っていることに思い至らず、牧くんに告白してもいいかな宣言をしてしまう。あの察しの良いイケメン女子のちずちゃんがだ。初期に人の気持ちわからない人間なんてって春田にビンタかまして牧くんをかばったちずちゃんがだ。

断っておくがみんな優しい人達である。それは間違いない。でなければ春田のカミングアウトの後、あの空気にはならないし、特別視しないで同僚として接してくれるとは限らない。みんな優しい。でもマジデリカシーな面はどこかしらに存在した。

中でもキングオブマジデリカシーは春田だった。職場でカップル宣言なんてヘテロカップルでもやんねえわ!ってツッコミたい。でも春田の中であれは牧くんへの誠実だ。牧くんが内面に抱えているものを知らないからこそ、牧くんの言葉の表面的なものだけをすくい取って空回りしてしまう。

そうマジデリカシーが起きるのは、おそらく知らないことという事実。世の中、想定外なことというのは案外リアルに存在するということを常識側の多数派にいると、ふとした瞬間に見落としがちだ。

視聴者から気づけ気づけと叫ばれる度に、マジデリカシーな私も少々胸が痛かった。多分、私も100回くらいはマジデリカシーな発言をしている。友人のことがあってから、気をつけてはいるが、それでも多分減ってはいるが0にはなっていない。

春田じゃないが「わっかんねええっよおおおおお」って絶叫ものだ。

天空不動産のあり得ないことだらけの世界が、私にとってリアルだったのは、春田というマジョリティ側から牧くんと部長を見た時の、傷つけたくない人達に、何やっていいかわからなくて、流され体質に拍車がかかって空回りというポイントだ。

春田はきっとみんなのことが大好きだ。でも恋愛がわからない。そしてあれだけ牧くんをこき使っておきながら、実は滅私奉公の人だ。道に倒れる人あれば、携帯なくとも病院へ行き、会社に乙女な上司がいれば、求められる対応をしてしまう。宮沢賢治か。

春田の人の愛し方はずっと「相手の望みを叶えてあげる」という受け身型で、だからこそ、牧くんとの最初のお付き合いは買い物行くし、実家行くし、お父様のお背中流そうと初対面なのに風呂にまで言われた通りに乱入する。それは全部、牧くんが望んだことだ。春田は牧くんが望んだものを惜しみなく提供してくれる。しかしここがひとつの罠だ。

誰にでも宮沢賢治モード発動してしまう春田は、実は牧くんに対して恋愛の区別がついていない。だからこそ牧くんはわかっていて「春田さんのペースで」と申し出る。実は部長も気づいているから「2番目の男でいいです」と食い下がるし、武川さんは春田にマジデリカシー!と弁当マウンティングからの五体投地で手を引いて祈願なんてやってしまう。

この頃、みんなカッコ悪かった。はっきり言えない春田だってカッコ悪いおっさんのひとりだった。でもすてきだ。全力でみんな誰かを思っていた。
恋愛はきれいじゃない。やたらそれがリアルだ。部長は特に、春田が部長としての尊敬の念がなかったら本社のコンプライアンス部にいつ駆け込まれてもおかしくないレベルだった。恋は人を狂わせる。古今東西のテンプレを見事に再現している。もう男女とか関係なくなってきていた。

行動はあり得ない。起きてることもあり得ない。ただ、そこにいるみんなの感情がリアルだった。ねえよ!ってツッコミならが、なんで泣くのか、結局はそこだ。人の想いがリアルだからだ。

さて、春田だけが、何もわからないまま、牧くんを大切にしたいという気持ちだけは持っていた。大切にしたいのは確かだ。ずっと牧くんの願いを叶えようと頑張ってたのは間違いない。

でも春田のようなタイプが一番愛情を届けにくい人がいる。それが牧くんだ。牧くんは本音がなかなか言えない。甘えるのはきっと苦手だ。春田はアホだ。酷いが愛すべきアホなので、表だけの言葉をまず追うだけで手一杯。6話の最後の地獄の好きじゃない宣言シーンでも、春田が食い下がる時に口にしたのは、今まで牧くんに言われてきたことであろうことをヒントとした申し出だった。俯瞰で見ている視聴者が全力で違う、そうじゃないと絶叫した瞬間でもあった。

春田がどんなに牧くんを大事にしていても、春田はノーヒントで牧くんの本音には辿りつけない。

それはやはり、春田が牧くんの内側をまだわかってないからだ。その件について一年後に武川さんが教えてやっと気づくってそれどうよって話だが、マジデリカシーな民としては、もう、わ、わかるかも……と青ざめてしまった。

春田には好きな人のために身を引こうという思考に、全く!気づかなかった。なぜならヘテロの春田には、恋愛は好きだから一緒にいればいいことで、好きな人と一緒にいると不幸になるなんて、それこそロミオとジュリエット、何世紀前のお伽話かという話だ。

それは春田が偏見が全くなくなっているということでもあるのだけれど。春田は残念ながら、残念なままだった。超鈍感ボーイ、ここにありである。

わかったようでわかってない。だけれど、愛情だけはある。

この距離感というか描き方は、私から見たら作り物の中の極彩色のように、妙にリアルだった。

実はとても野暮なことを私は言っている

おっさんずラブにハマってしまった最大の理由は、テーマが同性愛ではなくて、愛情に対する哲学だったからだ。

それがわかっていて、あえてLGBT絡みで話すのはものすごい野暮というのは承知している。しかも私は当事者から見れば部外者だ。

描かれたのは同性だけじゃない。マロと蝶子さんの歳の差、ちずちゃんの幼なじみ愛からの脱却、武川さんの過去の恋からの開放、武蔵モードが描いた初恋のやり過ぎてしまう後悔と完結。誰もが誰かを大切に思って、陥ってしまうかもしれない話だ。

ただ、おっさんずラブというドラマにリアリティを感じるのは、ヘテロの視点の存在をきちんと入れてくれたからではないかと、ずっと思っている。

おっさんずラブの世界はやさしい。誰も男を好きと言っても、驚きはしても責めはしないし、そうなんだ、で済ませてしまう。唯一蝶子さんだけが初回挙動不審な上に破壊神!と罵倒するが、これは不倫相手と思い込んだからであり、男の春田をライバル視できるという点である意味、一番フラットな視点だ。

私はずっとそうなんだ、って思って終わるタイプの鈍感さをもっていたけれど、そうじゃない人もやっぱりいて。

こんなの現実にはないと思う人はいても仕方ない。それくらい、世間様というのは適当だ。適当な価値観に適当な常識に流されてしまうことなんてよくある話で、それはきっと牧くんみたいな人をずっと小さくさせていた。いや、多分セクシュアリティ関係なく、人目を気にしているモラリストであればあるほど、世間の視線は気になってしまう。その表現がやたらリアルだ。万人が持つ、人の目に対しての議題として、牧くんの葛藤があった。

でもそういう悲しいところばかりがリアルじゃない。

おっさんずラブには許しがある。春田なんて、結婚式で誓いのキスをするまで気づかないほど、超絶鈍感ボーイだったわけだけれど、部長は嘘をついて許して背中を押してくれる。春田の幸せが何か、部長にはちゃんとわかっていたから。

部長だってアプローチはトンデモないものも多々あった。でも気持ちに応えないまでも、春田は好意をもたれるということまでは受け入れていた。

武川主任は過去に失敗した。でも牧くんをずっと見守ることで、その失敗を自分で昇華できた。

ちずちゃんだって振られても吹っ切って、牧くんと友達になっている。しかもある意味では一番の理解者だ。

暴走するし、鈍感だし、失敗する。どこにでもあるようなリアルな物語。でもそこに誰かが誰かを許している。その要素が加わって、どこにでもある、人によっては数年後に自ら黒歴史と言ってしまいそうになるような時間が、とてもいとおしいものに変えられた。

最後に牧くんは、自分がいないと春田が幸せになれないという、ほんっっとうに基本中の基本に立ち戻ることができた。牧くんが身を引いたのはやさしさだ。間違いなく、春田の幸せを願ってだ。でも最終回で牧くんはちゃんと気づいていた。自分が巻き込むことに耐えられない、自分のエゴでもあることを。

それを春田は全部最後に抱きしめてくれた。牧くんのエゴの優しさが溶けてくれた瞬間だった。かちんこちんの牧くんの恋の仕方を、春田が受け入れて叱って抱きとめた。

やさしい。やさしい世界だ。誰かが誰かを許して受け入れる。誰かが自分を受け止めてくれる。この世界をリアルに感じさせてくれた作品だった。

私も多分これからも時折、友人にマジデリカシーと言われるような失言をするだろうし、恋でもすれば暴走するかもしれない。今までだってしてただろうけれど。

それでも誰かがいてくれるというのは、それは許しなのかもしれない。そしてそんな優しい世界にいられるなら、誰かのことも私は許して受け止めたい。

牧くんの幸せにやきもき過ごした1ヶ月強が終わり、牧くんの笑顔が見れただけでも満足だが、すべて見終わって、こんなにやさしい多幸感を得られた作品は他にはない。

どんな愛もそれが当たり前に許されて存在する。そこはフラットだ。必要なのは理解じゃなくて、許容なのかもしれないし、そんな世界は現代のお伽話かもしれない。だけどリアルに思い描く。そして現実になればいいと切に思う。誰の愛も許される世界は、今よりもっと優しく、愛おしい。




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