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記憶の寿命について

moment:誰かに伝えるまでもないけど忘れたくない、大切な日々の記憶。人間関係だったり、趣味だったり、恋だったり。そんな取るに足らない些細な感情を記録していきます。(毎週更新)

「人の記憶に、寿命はあるのだろうか?」

友人とのふとした会話からこんな疑問が浮かび上がった。
記憶は完全に消滅することはないだろう。しかし、過去(例えば幼少期)の記憶をたどったときに覚えている記憶と全く覚えていない記憶があるのは確かだ。どんなことだと覚えているのか?どんなことだとすぐに忘れてしまうのか?
覚えている記憶だと、過去の自分のルーツとなるような出来事はずっと覚えているように思う。初めてお友達のバレエの発表会を観に行ったときのこと、父が買ってきてくれたおもちゃが気に入らなくって大激怒し怒られた日のこと。これらの記憶は不思議なことにその時の匂い、音、照明まで鮮明に覚えている。これに似た出来事はこれまで沢山あるはずなのに、何故かこのことだけをずっと覚えていたりする。もしかすると、これらの記憶は何度も何度も自分や自分以外の誰かと語り続けられているから覚えているのかもしれない。例えば、「今の自分の性格を形成したきっかけは…」と答えるときに必ずこの記憶を下敷きに語っているように思う。何度も語り、何度もその時の情景を思い出すから、記憶が「生き続けている」。

逆にすぐに忘れてしまう記憶は、自分や自分以外の誰かと共有することが少ない記憶のように感じる。例えば、過去に恋人だった人との思い出とか。当時の自分にとっては愛おしい記憶だったはずなのに、別れた悲しみとともに記憶を心の遠く彼方に追いやって思い出さないようにする。さらに、そういう当時の記憶は大概自分とその相手とだけの大切な記憶として存在しているので、関係を解消して以降その人との接点がない限り大切だった記憶を思い出すきっかけもない。記憶の寿命は、繰り返し語り続ける人との関係性にもよるのかもしれない。記憶を共有できる人が多ければ多いほど、その記憶は生き続けるし、少なければどこか遠くに忘れ去られてゆく。

最近、那須耕介さんの『つたなさの方へ』を読んだ。本の中の『「忘れたこと」はどこに行ったか?』という章で書かれていたことが重なる。「自分の記憶力が信じられないとき、私たちはさまざまな記録やしるしに頼る。」「人が記録やしるしを残すのは、しばらくのあいだ安心して忘れるためだ、」あらゆる場所に置かれた記念碑も、カメラロールに溜まった写真も、全ては忘れてしまうことへの「不安」の象徴なのかもしれない。さらに本の中では次のように語られていた「〜〜生きた記憶には結びつかない、形骸だけの記憶やしるしに満足してしまっていないだろうか。」

この瞬間が、この情景が、いつか忘れてしまうかもしれない。そんな不安も、もしかすると記憶の息を長くするのを助けるのかもしれない。カメラロールの写真に頼らないで、SNSのアーカイブに頼らないで、とりとめのない大切な記憶を生かし続けるために一人でも多くの大切な人と記憶を語り続けていきたいと思った。


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