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「美しい」の研究報告(1月)

見たり、触れたり、味わったり。日常の中で感じた「美しい」を掬い上げ、それについて研究した内容を綴る、日記に近い研究報告です。「美しい」ってなんだろう?そんな曖昧な感覚について深く考えてゆきます。


Taste

食卓の快楽

年始、大切な友人とともに京都にある「canavon」へ食事に行った。1月の京都、突き刺さすような冷たい空気をくぐり抜けてお店に入る。年始の挨拶から始まり、2023年の出来事と会話に花を咲かせながら、美味しい食事をふたりで分け合う。「美味しいを分かち合う時間が何よりも幸せだ」年末年始の休暇中に読んだ「美味礼讃」をきっかけにより一層そう思うようになったのかもしれない。その本の中に書かれていた印象的な一節に「食の快楽と食卓の快楽」というものがある。食の快楽とは、ただただ食欲を満たす快楽のことで、人間以外の動物にも当てはまる。一方、食卓の快楽とは、食事につくまでの準備をする時間、場所を選ぶ時間、食事に至るまでの会話がもたらす快楽のことを指し、これは人間にしか味わえない快楽である。まさに、私は食卓の快楽を思う存分に味わいたいのだと思った。なぜならそれが人間にしかできない生きる上での特権だから。その一節に触れて以降、一人で外食することや買い食いを控えるようになった。この空腹をどうせなら大切な人と埋めたい、美味しい瞬間を分かち合いたい。美味しい食事も、そこに至るまでの過程も、一人だけでなく誰かと分かち合う。それも愛する人と分かち合い続けることができたら、それは何にも代えがたい幸せなことだと思う。

canavonにて

📍canavon




Place

藤田美術館と影遊び

久しぶりにのんびり時間を持てたある週末。大阪・都島にある「藤田美術館」に足を運んだ。藤田美術館は明治時代に活躍した藤田家の蔵を改装する形で1954年に開館した美術館。その後長い改修工事を経て2022年にリニューアルオープンした。常設展はやっておらず、春と秋に3か月ずつ企画展の形でのみ開館するのが特徴。この時やっていたのは「妖」「山」「竹」の展示。それぞれのテーマにまつわる調度品や茶道具、掛け軸とかが展示されていた。展示のボリュームや展開もかなり好みだったのだが、展示のクライマックスに見える美術館のお庭もまたよかった。

藤田美術館のお庭

午前中は雨だったこの日。ちょうど西日の差し込む夕暮れ時に訪れたこともあって、雨上がりの庭が西日の光に照らされて柔らかく煌めいていた。木漏れ日に見惚れて、建物に映る影を追いかけて。太陽の出方によってはその影が濃くなったり、薄くなったり。「美しい」と感じた影は一瞬で姿を変えてしまうので必死にカメラ構えて、シャッターチャンスを待っては撮り、待っては撮りを繰り返す。その様子はまるで影と追いかけっこをしているかのようで、子供のように夢中になって影と遊ぶ自分がなんだかおかしく、心が解ける。なんとも心癒されるのんびりとした週末だった。また行きたい。


📍藤田美術館




Time

初日の出の反対側

初日の出を待つ人々

私が住む場所の近くには河川敷がある。都会の景色を遠目で見れて、空が開けていて心地よい大好きな場所。心身の健康維持のためにも昨年からそこで毎朝走るようになった。元旦の朝もいつも通り走りに行くと、沢山の人が河川敷に集まっていた。「ああ、そうだ元旦、初日の出だ。」日の出も綺麗に見える河川敷には、朝7時前から沢山の人が日の出の瞬間を今か今かと待ち構えていた。その様子を微笑ましく思いながらいつも通り走る。すると日の出と反対側にある、沈みかけの月の存在に気付く。2023年最後の役目を終えた月。少し寂しそうに静かに微笑んでいるかのような月の姿に強く惹かれて、気付いたら日の出ではなく月の写真を夢中になって撮り続けていた。みんなが初日の出を待ち望む中走り続け、突然止まったかと思うと次は日の出と逆方向の月を必死に撮り続ける様子は、傍から見たらかなり変だったのかもしれない。それでも、そのときに見た月はなんだか特別で、誰にも注目されていなくてもたしかに美しい空気を纏う月の存在をどうにかして肯定したくてシャッターを切り続けていたのかもしれない。皆が注目するものを愛でるのもとても素敵、だけど元旦に見た月のような存在を肯定し続けるような人でもありたいと思った。




Book

いきの構造

「運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのが〈いき〉である(いきの構造/九鬼周造)」

日本民族に独自の美意識をあらわす語「いき」とは何か?その正体は何者なのか?について書かれた本。いきな計らい、いきな女、なんとなく意味は分かるけどその言葉を形成している要素についてはあまりにも曖昧。その曖昧を深ぼっていくとても面白く興味深い本だった。そんなことを書いているこのnoteも「美しい」という表現の曖昧さを深ぼるために書き続けている。答えが出なくても、ただただその曖昧さを知っていくプロセスが楽しいから。だからと言って、曖昧さの正体を突き止めたくはないとも思う。もしその正体を知ってしまったら「美しい」という取るに足らない大切な感情があまりにもちっぽけなものに感じてしまうかもしれない。そんな怖さがはらんでくるからだと思う。

📍いきの構造




Other

思い出を味わいなおす

1月のある週末、埼玉・長瀞に初めて訪れた。が、私のスマホのストレージが少なすぎて、写真が撮れないだけでなく何度もシャットダウンを繰り返し全く使い物にならなかった。

初めて訪れた場所だから、沢山写真に収めたいのに撮れない。そんなもどかしさを抱えながらも、なんとかしてここぞという瞬間だけを数枚の写真に収めた。後日、カメラロールを振り返るとそこにはもちろん思い出の写真はほとんどないのだけど。それでも写真の断片を繋ぎ合わせてその時の思い出を鮮明に思い出そうとすると、その時の時間を再び味わっているかのような感情になり幸せな気分になった。もし沢山の写真を撮れていたなら、思い出の写真の存在に満足してしまい何度も振り返り思い出そうとすることはなかったかもしれない。いつでも思い出に浸れる何かがないからこそ、その瞬間のディティールまで思い出し、確かにあった思い出を色濃く残そうとする。過去の記憶や感情は時とともにどんどん彩色を失っていくけれど、こうやって何度も振り返り思い出すことで色合いを保ち続けられるのではないだろうか。写真に頼らずに、たまにはカメラを置いて目の前の時間を味わうのもいいもんじゃないか、そんなことを感じた週末だった。

岩畳に流れていたきれいなお水


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