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さいきんのオアシス

moment:誰かに伝えるまでもないけど忘れたくない、大切な日々の記憶。人間関係だったり、趣味だったり、恋だったり。そんな取るに足らない些細な感情を記録していきます。(毎週更新)

昨年の12月から、9年ぶりに茶道のお稽古を再開した。中高時代は学校の茶道部に所属していたのだが、お免状をいただきあっさり離れてしまっていた。しかし、両足院の坐禅体験に参加したのがきっかけで日本文化の魅力にすっかり取り憑かれ再び茶道を始めることにした。

今は月3回、仕事を少し早く終えて稽古場に向かい稽古に励んでいる。仕事と稽古を行き来する日はとてもおもしろい。ビジネスの生産性・効率化の世界からそっと離れて、どちらかと非効率だが美学に溢れた世界に浸る。同じ世界にいるはずなのに、このふたつに流れる時間があまりにも真逆でパラレルワールドを感じる。そんなふたつの世界の境界線を通り抜けて、茶の世界に浸る時間は私にとって心地よく、日常のオアシスのような大切な時間だ。それに加えて、先生との会話が毎回凄く楽しい。茶道部時代からお世話になっている先生は、私が1つ質問したらキラキラした瞳で色々なことを10以上教えてくれる。新しいことを知れるのが楽しいのもそうだが、それ以上に、まるで茶の世界にずっと恋しているかのように嬉しそうに話す先生との会話がとびきり楽しいのだ。9年前からずっと変わらず美しい先生、きっと何かに恋し続けている人は何歳になっても輝き続けているのだと思う。

先日行ったお稽古でもそんな先生から利休百首の一首を教えてもらった。

何にても置き付けかへる手離れは 恋しき人にわかるゝと知れ」

利休百首

「道具を置いた手をはなすときは、恋しい人と別れる気持ちのように、置いた道具に想いを残せ」という意味が込められた詩。つまり全ての所作に余韻を残せということ。この一首がなんだかとても響いた。恋しき人との別れもそうだが、日常の仕草や行動でもこのような余韻(間)をつくることでその瞬間、その対象がより愛おしく思えるような気がした。

つい最近まで仕事とは関係のないことに時間を費やすことに少しの恐怖と罪悪感を抱えていたけれど、仕事以外の時間を自分のためにしっかり費やすことで自分をしっかり満たしてあげられるし結果仕事のパフォーマンスにも繋がるなあと最近しみじみと思う。

また一ついいこと学んだと心の中でスキップしながら歩く稽古場からの帰り道。先生と沢山会話するために、茶の世界をもっと味わうために、もっと私もお勉強しようと心躍らせていた。

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